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信長公記 解説 太田牛一 浅井三代記 写本私的翻訳 姉川の戦い 1570年

金ヶ崎の戦いからなんとか撤退した信長が反撃に

有名な姉川の戦いですね。一体なにがどうなったのか。ワクワク

信長公記を基に見てみましょう!

合戦には、諸説あります。ブログ内の解説も個人的な解釈によるもので、正当なものではありません。誤字、脱字、間違えなどございましたら、コメントをお願いいたしますと共にご容赦ください。

目次

合戦の背景

越前の朝倉家に攻め、木目峠を越えている最中に突如、浅井長政の裏切りにより、挟撃されるという絶体絶命の状況をなんとか脱出した信長。浅井長政、朝倉義景との戦いが始まります。

金ヶ崎の退き口

落窪の戦い

6月4日 佐々木承禎父子(六角氏) 近江の南の群の諸所にて一揆を扇動し、野洲川方面へ軍勢を出し、柴田修理、佐久間右衛門らは、野洲川にて足軽を引き付け、落窪の郷にて合戦になり一戦に及んで、切り崩した。討取り首は三雲父子、高野瀬、水原、伊賀・甲賀衆の屈強な侍780討取り、近江の過半が静かになった。

小谷城の戦い

そうするうちに浅井備前守が越前衆を呼び寄せ、たけくらべ、かりやすの両所に砦を構えた。信長公をもってして調略し、堀氏、樋口氏から信長に忠節を尽くす旨を引き受けた。

6月19日 信長公が出陣した。堀、樋口が謀反したことを聞いて、たけくらべ・かりやすの砦の兵は、たちどころに退散した。たけくらべに一両日逗留した。

6月21日 浅井長政の居城の大谷へ攻め寄せた。森三左衛門、坂井右近、斎藤新伍、市橋九郎右衛門、佐藤六左衛門、塚本小大膳、不破河内守、丸毛兵頭 雲雀山へ登り 町を焼き払った。信長公は諸勢を虎後山に配置した上、一夜陣を置き、柴田修理、佐久間右衛門、蜂屋兵頭、木下藤吉郎、丹羽五郎左衛門、近江衆に命令して、あちらこちらの谷に入り込み、放火した。

6月22日 兵を納めるためにしんがりに諸手の鉄砲500を再び、弓衆30計を加え、簗田左衛門太郎、中條、佐々蔵介の3人を奉行として共に配置した。敵の足軽を近くまで引き付け、簗田左衛門太郎は、中筋より少し左につけて逃れた。引き付けて、乱れ懸りを繰り返し行い散々に奮戦した。太田孫右衛門は首を取り、退去し、一方ならぬ褒美を頂いた。二番に佐々内蔵介の手勢が引き付け、八相山宮の後ろにて戦いここでも佐々内蔵介は活躍し、退去した。三番 八相山の下の橋の上にて戦い、中條将監が傷ついた。中條又兵衛が橋の上にて戦い、敵方と橋より落ちて、中條又兵衛が堀底にて首を取り、比類なき働きにて名を高めた。弓の衆も協力して戦い問題なく退去した。その日やたかの下に野陣を構えて、よこ山の城に対応した。高坂、三田村、野村肥後守ら頑丈に立て籠もっていた。

6月24日より、四方より取り囲み、信長公たつかはなに陣を構え、家康公も出陣して、同じく龍か鼻に陣を構えた。。

姉川の戦い

そのころ、朝倉孫三郎 背後から攻めるとして8千の兵を大谷の東のより山という東西が長い山に陣を構えた。同じく浅井備前守5千の兵加わり、合計1万3千の軍勢になった。

6月27日 敵方が早朝に陣払いし、退いたと思っていたところ、

28日 未明に30町進出して、姉川を前にあて、野村の郷、三田村の郷に移り、二手に備えた。西は三田村方面に一番合戦にて家康公が向かわせられ、東は野村の郷の備えの手へ信長の馬廻り衆また、東は美濃三人衆諸々の軍勢一度に攻撃した。

卯の刻 東北へ向かって一戦及び、敵は姉川を渡り戦い、押しつ返されつつ散々に入り乱れ、黒煙立て、鎬を削り、鍔を割り、ここかしこにて、思い思いの働きがあり、ついに追い崩し、手前討取った。眞柄十郎左衛門の首を青木所左衛門が討取る。前波新八、前波新太郎、小林端周軒、魚住龍文寺、黒坂備中守、弓削六郎左衛門、今村掃部助。遠藤喜右衛門を竹中久作が討取り、首を取ったと高言あり。浅井雅楽助、浅井齋、狩野次郎左衛門、狩野次郎兵衛、細江左馬助、早崎吉兵衛、この外主たるもの1100余りを討ち捕えた。

大谷まで50町追討ち、麓を放火したけれども大谷の高い山の筋の所にて一旦に攻め上げるのは難しいと思われ、横山へ軍勢を引き返した。無論、横山の城の敵は降参し、退去した。横山の城に木下藤吉郎が城番として入った。それより佐和山の城の磯野丹波守が頑丈に立て籠もっていた。

ただちに信長公は7月1日 佐和山へ軍を出し、取り囲み鹿垣きを巡らせ、東の百々屋敷を砦にし、丹羽五郎左衛門を配置した。北の山に市橋九郎右衛門、南の山に水野下野守、西彦根山に河尻輿兵衛、四方より囲み、諸方への通路を止めた。

7月6日 馬廻り衆を召し連れて上洛、将軍へ現在の様子を報告し、各種の政務を行った。

7月8日 岐阜に至り、帰陣した。

浅井三代記

浅井三代記には、

はじめ小谷城を囲むように織田軍が攻め入った時に迎え撃ちたいと思っていたが父久政や老臣達に多勢に無勢なので、朝倉の援軍が来るまで辛抱するようにと諫言受け思いとどまる。なかなか朝倉の援軍が来ずに焦る長政の苦悩が書いてある。

ようやく、朝倉の援軍が到着する頃、姉川の合戦は次のような次第であった。(以下、参考現代訳がないので訳の間違いが多いと思います)

援軍の家康公が進みだされ、夜も更けにとくと軍の手立て合戦の備え次第等急ぎ御定めるべきではと申しだされた。家康公が言うには、今度の敵は死生をきわめてかかってくるので、朝倉勢か浅井勢かの一方を某に請け取りたいと信長公に申し上げれば、信長公は越前勢を迎えて誰かを加勢に加えるがだれがよいかと聞くに家康公さらば稲葉伊代守を召し加えたいと申し上げ、信長公 稲葉伊代守に名誉なことであると仰せられれば、稲葉伊代守が申し上げるには我勢わずか一千騎ばかりなり何として家康卿の御跡を取り繕うことができましょうやと申し上げれば、家康卿が我考える子細あり、安心してよいと申し上げ、この上はいかなる天魔破句が襲い来るともこの家康が居ればご安心くだされと申され、笑い立った。

かくて越前勢の相手は家康卿に決定し、浅井勢に向かう信長卿の先陣は、坂井右近、二番には池田庄三郎、三番木下藤吉郎、四番柴田修理亮、五番簗田出羽守として信長の本陣まで十三段なり、横山の城の押さえには、氏家常陸介入道ト全、伊賀伊賀守、丹羽五郎左衛門尉を配置した。このような軍勢を決めたのは五更の天(夜明け前)に備えて合戦の次第に御使番をもって仰った。先陣は東北の向きに押し、家康卿は西北の向きに押しならべた。

浅井の軍勢は、先陣 磯野丹波守員正に山崎源八郎、高宮三河守、大字大和守、赤田信濃守蓮墓寺を共にして1500騎、二番に浅井玄蕃允、舎弟雅楽助、三男斎宮助、四男木工助、上坂備中同刑部、舎弟五助、某彌太郎、三番に阿閑淡路守、子息萬五郎、西野壱岐守、四番に新庄駿河守、今井十兵衛、田那部式部、神田修理亮、五番に東野左馬助、月ケ瀬若狭守世上坊、六番に浅見對馬守、同大学助、七番に旗本と定めて、段々に働くようにと定め置き、総勢8000なり

越前の軍勢は、朝倉九郎次郎景紀、黒坂備中守、豊原平泉寺の法師武者の社人兵3000と合わせて、13000となり段々に定め大路村、三田村へ陣を移動するところに

家康卿の先陣すきまもなく弓、鉄砲を射かけ打ちかけ攻めかけて討ち入れば朝倉の軍勢かと思うに違いないと寄手の軍勢我も我もと進み来るのを平泉寺の法師武者いざ追いおわんというままにひしひしと討ち出て、徳川殿の先陣とひしとぶつかり合い、姉川を越えて追いつつ返しつつ討つ打たれつ火出るほど戦い家康卿の先陣の者進みかねて見てみれば越前勢は勝にのり勢いかかって、川に向かい越えようとしている浅井勢の先陣の磯野勢を見て、越前勢は、はや槍を入れたるぞと我勢も攻め入り西南に向かい、

お喚き叫んで押し出す所に右近(織田勢の先陣、坂井右近)は一軍の大将として不似合いにみると思えば、その待ち構える所に磯野丹波守1500にて真直ぐに右近が2000余りの軍勢に討ち入れようとするのを右近は、姉川を越えさせないように持ちこたえようとするが磯野勢が強いために川を追い越し散々に戦い、右近勢を追いわき、右近の一族口惜しく思い100騎余り引き返し戦うが枕を並べて討死し、残り少なくなり退こうとするに右近の嫡子坂井久蔵未だ16歳の容顔美麗人に優れ心もゆうに優美であったが引き返し向かう敵と渡り合い切りつ切られつしばらく戦うがついに討たれてしまい、郎等の可兒彦右衛門、坂井彦八郎などとも枕を並べて討死した。父の右近は夢ばかりもこれを知らずに退却していた。

これにより磯野丹波守気負い二番に構えている池田勢も追い立てる。他の浅井勢もこれを見て、総攻撃をするべきだと、浅井玄蕃兄弟四人、阿閑・新庄・月ケ瀬・上坂・西野・東野の主たるもの初めとして、7000騎余り決死の覚悟で突撃すると信長の陣構え十三段の内十一段ま切り崩した。信長卿は手に汗握り、腹を切るべきかと覚悟を決めようとするところに

西の朝倉勢13000に家康卿の軍勢わずか5000にて攻撃する先陣の酒井左衛門尉、この外、小笠原興八郎、東三河の兵2000ほどの騎馬を一面に立ち並べ、槍をそろえ面もふらずに進むと敵の先陣は、1000騎の槍衾を作り突撃する東西に広がり合わせ南北に散々に戦うが越前勢強く、味方が少し引き退るが酒井・小笠原いく度か返し合わせ向かう敵数十人切伏せへるけれども越前勢は、浅井勢の勝と見て猛勢にてお喚き叫んで押し出してくれば家康卿も信長公の本陣既にあやうく見えた。

本多豊前守、松平左近将監が向かって東西を見ると、味方すでに利を失ったと見えた。この上は我が旗本をくずしてかかれと自ら命令するところ、本多平八郎が馬上に槍をひっさげ真直ぐにただ一人朝倉勢一万騎に中に喚き叫んで馳せ向かう、松平左近将監も本多討たすな平八郎討たすなと自ら槍を持ち、老武者・若武者二千騎の兵ども我も我もと攻め向かう、二陣に控えたる稲葉も千騎にてどっと朝倉勢の中へ攻め込み、槍を合わせれば敵もここを守り防ぐ戦い、家康卿の軍勢皆も退かずに首を取る者取られるものあり、十文字にかけ破り巴の字に追い回し、太刀の鍔と矢叫びの音、天地に響いて攻め戦う家康卿の御近習の兵ども左右に関をどっと作りかけ槍を入りければ敵が南南東に引き、色に成りて見えてくるところを大音響をあげてここが踏ん張り時と兵どもと士卒の機を励まし隙間もなく命令したところ、皆心をかたくおもった。

徳川殿に追い立てられ、蜘蛛の子を散らすように落ちて行くのを三川村、田川邊まで追討ちにうつ程に真柄十郎左衛門父子三人、前波新八郎、舎弟新太郎、小林瑞周軒、魚住龍門寺、黒坂備中など兵ども敵に總角(揚巻)を(敵に背を)見せるものかと思い、引き返し手柄を尽くし討死する中にも真柄は大力無隻の剛の者なれば五尺三寸(159cm)の大太刀を真向に差しかざし取って返し四方八面にて切り回したら、四、五十間四方は小田をすき返したるようであった。これに渡り合う者追い詰め追い回し十四・五人切伏せたのは、この真柄十郎左衛門という者なり、志の者あれば引き組にて勝負せぬかと声を聴いて、徳川の郎等の匂坂式部という者が参り合わんというままに手槍を引っさげ渡り合いしばらく戦い鎧の草ずりの端に一槍突いたがものともせずにも大太刀をもって打ち払い、払い切り、切たれば匂坂式部の甲冑の兜の吹き返しを打ち砕き、余る太刀にて持ちたる槍を打ち落とすところに匂坂式部の弟五郎次郎が助けに来て、真柄に渡り合い戦うが余りに強く打つほどに蜻蜓(トンボ槍)に受け流す所をおかみに切りて切りて、匂坂の太刀ををはばきの本から、すんと切り落として、あまる太刀にて弓手の股を切りつける。太刀の柄のみを持ち危ない所を匂坂六郎五郎がこれを見て、隙間もなく助け来るのを郎等の山田宗六が我主を討たせまいと太刀を真向にかざし、進み来る真柄をぐっと見て、志の奴ら愛おしくは仕えて物見せんというままに太刀を取り直し、えいやと打ち込み唐竹割に打ち割り、弓手・馬手へ逸らし開いたのを六郎五郎得たりと十文字の槍にて駆けたるを真柄は打物が達者なればしばらく受け流し戦うが遂に追い詰め最後こそ神妙になり、起き上がり、これまでと真柄の首取りてあなたの名誉にせよといったならば六郎五郎は匂坂式部に向かって、はじめに槍をつけられたのはあなたであり、首を取って大将に見参行くべしと言ったが辞退したので、走りかかり首を落とした。

(この先一部省略します)真柄の嫡子十郎も敵を討ち払いいづれにて討たれたのかと求め行く所に青木加賀右衛門が嫡男の所右衛門尉と勝負して、討取られた。

浅井勢は信長卿の軍勢十一段まで切り崩し森が手にてえはしささへけれども備前守長政、勝ちにのり、旗本を崩し懸れと命令すれば信長卿の旗本がおおいに騒動し、信長卿もすでに危うく見えた。家康卿、稲葉伊予守、朝倉勢を追い捨て、浅井勢の真ん中へ馬煙を立てて横槍に駆け入れ喚き叫び戦い、浅井勢は横槍に驚き色めき退がろうかという所に横山城の押さえに居た氏家常陸介入道ト全、伊賀伊賀守三千騎あまりにて馳せて来たる。家康卿の軍勢との双方よりもみ合い戦えば浅井勢の兵共ここを大事と命も惜しまず火花を散らして戦うが家康卿の横槍に駆け散らされ氏家・伊賀にもみ合いにされ、浅井の味方敗軍になった。浅井玄蕃、安藤右衛門佐、桑原平兵衛、今枝彌八、森九兵衛、稲葉刑部少輔、稲葉土佐守、佐古江加兵衛。豊瀬輿十郎という者脇目もふらず切りかかれば玄蕃淡路もとより戦い疲れて引き退く、磯野丹波守員政は、引き返した後にじっと見るに味方まばらに敗北すればかなわないと思い、我が預かり置く佐和山の城が心許ないと打ち散らしたる手勢を少々まとめわずか300にて敵の群がる真ん中を討ち破り駆け通り、佐和山の城に退却した。佐和山の城まで四里ほどあり、磯野丹波守の働きに感せぬ者はいなかった。こうして浅井雅楽助、三男斎宮助、加納次郎左衛門尉、加納次郎兵衛、安養寺甚八郎、安養寺彦六郎、細江左馬助、早崎吉兵衛、上坂五助、上坂彌太郎、上坂次右衛門はここを正念場と戦うが味方散り散りに敗北すれば討死と思いきり、各手柄あくまで尽くし敵数多討取り終に討死した。

上坂刑部は、はるかに退いていたが郎等にあって二人の兄弟の者共は、彌太郎はどこであろうかと尋ねれば、いずれも敵の中へ駆け入れ討死と知らされたがと答えるとしばらくして追い付く兄弟の者共というより早く乗り返し敵の中へ駆け入りよき武者を忽突き倒し先へ進んで駆け入れ本望を遂げ、討死をそえた。

この者共は軍功数多ある剛の者なり、中にも物のあわれを留めしは浅井雅楽助兄弟、先年の野良田合戦・御影寺合戦の後に朋輩どもと寄合味方の働きの詮議など丁寧に伺うと、斎宮助が申すには、だれだれと申さないでも我らが祖父大和守の働き又は兄の玄蕃などの働きぶりを越えたる者家中にはいないと申したら、兄雅楽助は大いに怒ってこれほど歴々多き中にて、そのような荒言は無益なりと辱しめれば、斎宮助歴々の中にて諫言されること奇怪なりといって、それから近年中をたきつづけていたが27日の亥の刻あたりに兄の雅楽助、斎宮助が陣所に行って明日討死を遂げる事は必定なり、今は遺恨もくだらなく、名残の盃を飲もうか。雅楽助酒を持ってきて仲の良い郎等共に出て、飲めやと盃をめぐらしたるはあわれにも覚えたり、勇士足らん者はこれこそ望ましいとは言わぬ人はいなかった。

攻めるところに遠藤喜右衛門尉が首を持って、味方の軍勢に紛れ入り、信長卿に近づき刺し違えようと心がけて、御大将は何処にいらっしゃいますかと言い回り行くほどに信長卿の居るところへその距離十間程度に近づいたときに折しも竹中久作を見つけ、味方の時に仕えており思う所多くあると(訳が違うかも)、名乗り懸かり取っ組み合い上を下へと返すが久作ついに打ち勝ち遠藤の首を討ち取った。かねてより遠藤の首を取るべき者と申していたこの剛の者の心恐ろしかったこと伴った。遠藤の郎等富田才八という者、5・6町引き退がるが遠藤喜右衛門が討たれた聞き、何を期すべきとて取って返し、散々に太刀打ちしてここを最後と戦うが、終に討たれてしまった。弓削六郎左衛門尉、今井掃部助も遠藤の討たれたことを聞き、同様に大勢の中へ馳せ入り比類なき働きして討死死す。

しばらくして散々に敗北して、寄せ手は勝ちに乗り、追い打ちに打つ程に矢島の郷、尊照寺田川まで追った。浅井備前守長政も小谷を目指して、逃げ入るところに安養寺三郎左衛門は兄弟の者共討たれここまでと思い、敵の中に駆け入り、よき武者と取っ組み合い首を取り立ち上がらんとすると信長卿の小姓の者4・5人に落ち重なり、生け捕りにされて、信長卿の御前に引きずり、信長卿はご覧になり安養寺久敷と仰せられとかくの返事も申し上げずに日々の(日比野かも?)御恩賞にとくと首を切るように申せば、何の事かと汝の詳細あるものの事なり、先の若者共の取りたる首を見せよと仰せられ、織田おなあが持ち来る首を安養寺に見せて、これは私の弟甚八郎ともうすものでございますと申し、織田おきくが持ち来る首これも私の弟彦六ともうすものでございますと申し上げれば、さてさて不憫の次第なり、汝の心底さぞやと仰せられ、竹中久作が取りたる首を見させればこれは遠藤喜右衛門尉にてございますると申し上げる。この外の首計30見せられ一々に名付けをした。安養寺重ねて申し上げるは、早時刻も移りましたので暇を頂と申し上げ、首をはねられ下されと申し上げるが、いや汝は一度備前守の用に立命を捨てたり、今日よりはこの信長が命なり。小谷に帰り、無二の忠義致すべし、我らも随分加恩を行うなり、まず汝に問うべき子細あり、このまま押し寄せ、小谷を攻めようと思うなり。それゆえ、今日の軍に働きたる浅井の兵は何の役にも立たないので小谷は即時に落ちるだろう安養寺に述べた。安養寺申し上げるには浅井備前守の親である浅井下野守久政が手勢が一千騎もございます長政の城番井の口越前守の勢500騎あまり、千田采女正と西野入道の勢も少々二三百あまりございますれば新手の勢千七八百騎は堅くございますので早くは落ちないかと申し上げた。信長卿お聞きになり、安養寺の申すところもっともなり、その上我らの勢も今日の数刻の戦いをしており、重ねて小谷を攻めるなり、この時は忠節を励ますとして安養寺は、不破河内守に預けて小谷に帰すようにした。

そのようなところに木下藤吉郎秀吉が馳せ来て、何とてそれに緩々とおいでになり小谷へ軍勢を押し寄せ乗っ取りくだされませと申し上げれば、ここにて安養寺と相談したら城中に残る兵が多くあるといえば早速には落ちないだろう。まず、こんどは味方の軍勢を入れと仰せつければ秀吉重ねてこの競いに攻めたら即時に乗っ取れるものにございますと申し上げるが、信長卿が仰せになるは、今は、はじめぬ。藤吉郎の大腹をいうと笑われた。この時信長攻めたれば小谷は即時に落ちただろう。留守居の老武者二百騎あまりと聞いた。安養寺の計り事と故その後三年は掛かることになり、こうして味方の討ち取った首八百あまり、討たれた兵千七百であった。今日の軍に家康卿の横槍の暫時の間がなければ信長卿を討ち取ることができたものをと、今に至るまで人皆申していた。

考察

信長公記の戦いの様子が寂しく感じられたので、他の資料を調べてみたら、浅井三代記が国立図書館のデジタルで保存閲覧できたので、翻訳して掲載した。姉川の戦いの布陣図や戦いの様子などは、この浅井三代記から伝えられと思われる。資料としての信憑性はあまり高くないとされている。たしかに戦いの様子があまりにも詳細過ぎなので、驚いてしまう。作者は”伊香郡木之本浄信寺の僧遊山(雄山)。寛文末年に前田家老臣奥村氏を経て加賀藩主に献上された”(コトバンク)。家臣ではなく僧が書かれ、また、寛文は1661年から1673年らしく約100年後に書かれているので、信憑性は低いとなる。

従来の姉川の戦いでは、徳川軍の榊原康政が側面から攻撃して勝利し、織田軍は全く活躍していないように書かれているのが多く散見してあります。

本田平八郎忠勝の突撃をきっかけに朝倉勢を攻め立て追い打ちし、その勢いにて、稲葉勢と共に浅井勢に横槍を入れ、また、横山の城の押さえにいた氏家ト全と安藤守就も浅井勢に攻め入れ、三方から攻められ、さすがの浅井勢も敗北することになった。

磯野丹波守員政が佐和山の城に帰るためにわずか300兵で織田軍を突き抜けたのは、関ヶ原の島津氏敵中突破と並ぶ見事な敵中突破ではないだろうか。

決死の覚悟で、戦いに挑んだ浅井勢の気迫が伝わってくるのは読みごたえがあった。

終わりに

この後、9月に野田・福島にて、三好三人衆や斎藤龍興らの浪人が立て籠もっていたので出陣した。将軍足利義昭も出陣した。根来、雑賀、湯川、紀伊の国の軍勢二万が織田軍に参加した。敵はたちまち和睦を申し入れてきたが信長が許さず陥落させよとしたが突然に本願寺が挙兵し、戦いとなった。

姉川の戦いにて、浅井・朝倉勢に勝利したものの壊滅的な勝ちとはならなかった。また、三好三人衆に加え、本願寺までも将軍義昭・信長に反旗を掲げ、信長包囲網が拡大しつつある。

参考資料

参考資料 

1.信長公記 国立図書館デジタルコレクションにて、ダウンロード閲覧できます。 所々、旧字なので難しいです。

2.地図と読む現代語訳信長公記 中川太古 訳 株式会社KADOKAWA                        すごくわかりやすいです。参考にさせていただきました

3.地図作成 国土地理院地図 ベクター地図 色々編集できます。おすすめです。

4.信長の天下布武への道 谷口克広

5.越前朝倉一族 松原信之

6.浅井長政のすべて 小和田哲男

7.浅井三代記 国立図書館デジタルコレクションにて、ダウンロード閲覧できます。

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