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信長公記 解説 太田牛一 写本私的翻訳 1573年 伊勢、1574年河内長島

目次

北伊勢に出陣

9月24日 信長 北伊勢に至りて馬を出され、その日は大柿の城に泊まられた。25日 大田城の稲葉山に陣取り、近江州は、つふ・おふじ畑越えて、26日桑名方面へ軍勢を打ち出した。西別所に一揆が立て籠もっていた。これを佐久間右衛門、羽柴筑前守秀吉、蜂屋兵庫頭、丹羽五郎左衛門の四人として取り掛かり、責め破り、敵多く切り捨てられた。さか井の城に片岡という者がいた。柴田修理亮、瀧川左近の両人は砦を取り巻き、攻め立てた所、降参した。

10月6日 両人は、ふかやべの近藤の城を取り掛かり、金堀を入れ攻めこれも詫びを申し、罷り退いた。

10月8日 信長 東別所へ陣を寄せられ、いさか、かよふ、赤堀、たなべ、桑部、南部、千草、長ふけの侍、田邊九郎次郎、中島勘解由左衛門 いずれも人質進上してお礼を述べた。ここにおいて白山の中島将監がお礼に罷り出ていなかった。佐久間、蜂屋、丹羽、羽柴の四人を築山を築くように仰せつけ、金堀を入れ攻めたところ、城を守るのは難しいと思った上にて詫びを申し、退散した。

このころ、京都の静原山に立て籠もっていた敵の山本対馬守を明智十兵衛が調略をもって、切腹させ、首を北伊勢の東別所まで持ち来て、進上した。敵者ことごとく従い、存分に威光は不足ないところであった。

北伊勢一揆に罷りなり、河内長島も半ば過ぎ相果たし、迷惑に思っていた。矢田の城を普請し丈夫にするように瀧川左近を入れ置いた。

10月25日 信長 北伊勢より馬を納められ、左は多芸山の茂りたる高山なり、右手には川に入り、人足多く有りて茂りたる事ならず、大方は山下に道一筋めくりまわって要害なり。信長の引き上げを見て、後へ河内の奴ら弓、鉄砲にて、山々先々へ移り廻り道の節所を支え、伊賀・甲賀のよき射手の者共馳せ来て、織田軍をさしつめ引きつめ散々に討ちたるを際限なく雨が強く降って、鉄砲者互いに使えなかった。ここにおいて、越前衆の中に毛屋猪介ここにおいて支えあいてかしこにて打ち合い幾度の比類なき働きであった。信長公の一長の林新次郎残し置き、数度追い沸き要害のつまりては防ぎ戦い火花ちらし相戦った。林新次郎、林家の子郎党と枕をならべ討ち死にした。林輿力に賀藤次郎左衛門という者が尾張の国久々取り合いの内ここにおいてはいう時に人々に名の知れたよき矢を打つ射手であったなり。この度も先へ懸かる武者を射ち倒し、林新次郎と一緒に討ち死にした。名誉というは愚かななり、その日は午の刻より薄暮れになり、以外に風雨にて下の人足等に寒死するものもいた。夜に入りて、大柿城まで退却し、10月26日岐阜に帰陣した。

三好義継

11月4日 信長 上洛し二條の妙覚寺に寄り、泊まった。三好左京太夫殿の非儀を必ず頼った家老の衆によって、多羅尾右近、池田丹波守、野間佐吉の両三人が別心を企てて、金山駿河守萬端一人に覚悟を任せて、金山駿河を切腹させ、佐久間右衛門を引き入れ、天守の下まで攻め赴いた所、三好は、叶わないと思い定め、女房、息子達を皆刺し殺して、切って出て多数を手を負わせ、そのあと、左京太夫殿腹を十文字に切り、比類なき働きであったが哀れな有様であった。軍勢を伴って、那須久右衛門、岡飛騨守、江川の三人は、追い腹をし名誉の次第なり。このとき、若江の城両三人忠節をもって預け置いた。

10月2日 信長公岐阜に至りて、帰陣された

1574年 天正2年 河内長島成敗

7月13日 河内長島を成敗のため 信長父子ご出馬を出され、その日津島に陣取り抑えた。尾張国河内長島とは、有名な要害なり。濃州より流れ出る川、数多あり岩手川、大瀧川、今洲川、眞木田川、市の瀬川、くんせ川、山口川、飛騨川、木曽川、養老の滝、この他山々の谷水の流れの末にて落ち合い大河となって、長島の東北西5里3里の内に幾重ともなく引き回し南に海上漫々として、四方の難所ゆえ中々に攻めがたい。愚かによって、隣国の倭人凶徒など集まって住宅し、当寺崇敬する本願寺念仏修行の道理をないがしろにし、学問無智ゆえに朝夕咲き誇る花の乱舞のように日々を暮らし、砦を構えて、数か所に端城を拵え、国の掟を蔑む如し、国が持ち扱う法度を背き、折檻の輩をもよく隠れ家を置き、領地を1年押し寄っていた。

信長公 舎弟 織田彦七郎殿 河内の小木江の郷に至り、ここにおいて、打越て足掛かりの砦に在城の所、先年、志賀の陣にて浅井・朝倉と対陣の半ば手塞がりと見るに及んで、一揆を蜂起し、連日に攻めて来て、織田彦七 腹を召した。許しがたき條々をおざなりにし、数多くできていなかった。日々鬱憤が溜まっていたが、信長天下の儀によって、暇はなく成敗を引き延ばしていた、今度諸口より、取詰めて急ぎ支度し、思い通りに退治するなり。

東は、嫡男 織田官九郎、一江口を越えるなり、相伴衆 織田上野守、津田半左衛門、津田又十郎、津田市介、津田孫十郎、斎藤新伍、簗田左衛門太郎、森勝、坂井越中守、池田勝三郎、長谷川興次、山田三左衛門、梶原平次、和田新介、中島豊後守、団小十郎右衛門、佐藤六左衛門、市橋博左衛門、塚本小大膳、

西は、賀鳥口に佐久間右衛門、柴田修理亮、稲葉伊代守、稲葉右京助、蜂屋兵庫頭、

松の木の渡りを支えている一揆にどっと川を乗り渡し、馬上より数多く切り捨てたなり。信長公は、中筋のはやお口に先陣は、木下小一郎、浅井新八、丹羽五郎左衛門、氏家左京助、伊賀伊賀守、飯沼勘平、不破河内守、不破彦三、丸毛兵頭、丸毛三郎兵衛、佐々蔵介、市橋九郎左衛門、前田又左衛門、中條将監、河尻興兵衛、津田大隅守、飯尾隠岐守、一揆は小木江村を塞ぎ、通りに追い沸き、また、志のはしより、一揆罷り出て支えていた。ただちに木下小一郎、浅井新八の両人は懸かり向かった。こだみ崎の川口に舟を引き付け、一揆の堤へ取り上り懸かれば、丹羽五郎左衛門も懸かり向かい追い崩し数多く討ち捕え、すえび江島、かろうと嶋、いくい嶋を焼き払った。

信長その日は、五妙に野陣をさせられ、15日に九鬼右馬介があたけ舟に瀧川左近、伊藤三丞、水野監物、これらもあたけ舟に乗った。島田所助、林佐渡守の両人も葦舟を拵えてその外浦々に舟を寄せ、蟹江、あらこ、熱田、大高、木多、寺本、大野、とこなべ、野間、内海、桑名、白子、平尾、高松、阿濃津、楠、ほそくみ、伊勢の国司織田信雄は、たるみず、鳥屋野尻、大東、小作、田丸、坂奈井、これらを武者大将として、召し連れ大船に取り乗りて、参陣なり、諸手の勢衆は船中に思い思いの旗印を打ち立て、綺羅星、雲霞の如く四方より長島に押し寄せて、諸口に取り詰めて一揆を攻め立てた。癪を忘れ、妻子を引き連れ長島へ逃れ入れた。

信長父子は、との妙へ打越て、伊藤の屋敷の近くに陣を居せられて、攻められるのをご覧になり、諸口の陣取りに敵城を攻めるように仰せになった。志のはせ、大鳥居、屋長島、中江、長島の五か所へ敵が立て籠もっていた。志のはせを攻める衆は、津田大隅守、津田浦介、津田孫十郎、氏家左京亮、伊賀伊賀守、飯沼勘平、浅井新八、水野下野寺、横井雅楽助、大鳥居を攻める衆は、柴田修理亮、稲葉伊代守、稲葉喜六、蜂屋兵庫頭、今島ふに陣取り、川手は大船を推し付けて攻めたなり。推しの手として、佐久間父子・江州衆を加えて、坂手の郷に陣を懸かられたなり。長島の東 推付の郷を陣取り衆は、市橋九郎右衛門、不破彦三、丹羽五郎左衛門、かろうと島口を攻める衆は、織田上野守、林佐渡守、島田所の助、この他尾州の船団100艘にて海上を所なきに乗り入れた。南大島口を攻める衆は、本所、神部三七、桑名衆、この他に勢州の大船団100艘にて海上を所なきに乗り入れた。諸手の大鳥居、志のはせに取り寄せ、大鉄砲を以って、堀櫓を打ち壊して攻め立てた所、両城は迷惑致し、赦免の詫びを言うけれどもついも許されず、倭人を干懲らしめて殺ろすように、年来の緩怠の狼藉の鬱憤を散らすために許容なきところとなった。

8月2日 この夜は以外風雨があり、これに紛れて、大鳥居に籠城の奴らが夜中にわき出て退散するところを男女千人ほど切り捨てた。

8月12日 志のはせに籠城している者が長島の本坊主に入りて、働くと忠節を誓う旨を堅く請けて一命助け長島へ追い入れていた。

7月13日から島中の男女貴賤知らず共達を長島または屋長島、中江の三か所に逃れ入れ、三か月過ぎたあたりで飢え死にした。

9月29日 詫び申し長島を明け渡し、数多の船に取り乗るところを鉄砲で揃い撃たされ際限なく川へ切り捨てられ、その中心にある者共がはだかに成り伐刀にて7・800人切りかかり、崩されて織田一門をはじめ、歴々数多討ち死に小口へ働き、留守の小屋小屋へ隠れ入れ、思うほど支度をして、それより川を越えて多芸山、北伊勢口へ散り散りに罷り退き大阪へ逃れ入れたなり。

中江城、屋長島の城、両城に居る男女2万人を幾重にも柵を巡らし、取り囲み置いて、四方より火を放ち焼き殺し、満足した。

9月29日 岐阜に帰陣された。

解説

伊勢・長島一向一揆といえば、個人的にワクワクせずにむしろ目をつむりたくなる戦である。無論、武将たちの戦いも良いわけではないのだが何か違う気がするのだ。一揆との対立は、織田信長の残虐さを表している1つの戦となっている。しかしながら、特にそう感じるのは、我々が現代人であるからではないだろうか。現代では、基本的に身近な世界では平和が当たり前になっているためにその残虐さが際立って見えるのである。もちろん、戦国時代においても躊躇すべきことではあるが、これこそ、「是非も無し」ではないだろうか。あえて我々の現代で例えてみるなら、一向一揆とはテロリスト集団なのである。宗教の名のもとに政府に敵対行為を行使する。法を無視し、手段を択ばずに一般市民を巻き込んだテロ被害を与えてくる存在なのだ。そのテロリスト集団によって、身内を失ったり、政道を邪魔されたならばテロリスト集団を一掃せざるを得ない状況といえるのではないだろうか。テロリスト集団が単に悪いということではなく。対局した場合にこちら側には、こちら側の正義を行使する。そして、テロリスト集団にも正義があるのだ。もちろん、政府に意見することが悪いことではなく、問題なのはそれを老若男女構いなく武力行使することが問題を解決することなく、よりいっそ問題を複雑にし、武力行使は、目的を達するための手段であったのが、いつしか復習のための目的にすり替わってしまう恐ろしさである。戦国時代の一向一揆は、特に宗教者が市民や門徒を煽り、扇動して一揆を蜂起させたことにある。信長公記から見れば、再三再四、宗教は政治に関わるなと警告しているにも関わらず、自ら戦闘に介入しているのである。

まさに是非も無しである。単に織田信長だけが残虐ということではない。どの戦国武将も一向一揆に恐れていたのだ。越前の一向一揆も有名である。野心のあまりなかった朝倉家でも幾度も一向一揆と対立しているのである。一揆とは巨大な力であり、よほどの戦力がある武将でないと戦えないのである。つまり、ほとんどの武将たちは、仕方なく一揆と共存するしかなかったのである。そして、時には一揆を利用したり、されたりしたのである。

我々現代人は、歴史に学び、決して宗教の名のもとに戦争を行わないことである。

参考資料

参考資料 

1.信長公記 国立図書館デジタルコレクションにて、ダウンロード閲覧できます。 所々、旧字なので難しいです。

2.地図と読む現代語訳信長公記 中川太古 訳 株式会社KADOKAWA                        すごくわかりやすいです。参考にさせていただきました

3.地図作成 国土地理院地図 ベクター地図 色々編集できます。おすすめです。

4.信長の天下布武への道 谷口克広

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