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信長公記 解説 太田牛一 写本私的翻訳 1575年 加賀・越前平定

目次

加賀・越前 攻め

1575年 8月12日 勢州へ進軍した。その日垂井に陣取り、13日大谷にて羽柴筑前守の所に泊まられた時に惣人衆へ筑前守より兵糧を被出たり、14日敦賀に泊まられた。武藤宗右衛門の所に居陣された。敵が城に籠っていた。

一、虎杖の城は丈夫に拵えてあり、下間和泉が大将にて、賀州・越州の一揆共が罷り出て、籠っていた。

一、木目峠石田の西光寺大将として一揆共を引卒し在陣なり

一、鉢伏の城専修寺に阿波賀三郎兄弟と越前衆が籠っていた。

一、今城・火燧の城の両城は丈夫に拵えて往古の如く、のうみ川、新道川の二つ川の落合を堰切り水を湛水した。下間筑前守大将にて籠っていた。

一、だいら越え、すい津の城大撫での園強寺に加賀衆が相加わり在城なり

一、海手に新しい城を拵え、若林長門守息子甚七郎の父子が大将にて越前衆が被出し、警固なり

一、府中の内龍門寺に拵え、三宅権丞が在なり

この如く塞ぎ取り結び足掛かりを構えて、堅固に備え籠っていた。

8月15日 以外な風雨といえども先兵打ち出し越前牢人衆に対する先陣は、前波九郎兵衛、父子、富田彌六、毛屋猪介、佐久間右衛門、柴田修理亮、瀧川左近、羽柴筑前守、惟任日向守、惟住五郎左衛門、別規右近、長岡兵部太輔、原田備中、蜂屋兵庫、荒木摂津守、稲葉伊予、稲葉彦六、氏家左京助、伊賀伊賀守、磯野丹波、阿閉淡路守、阿閉孫五郎、不破河内、不破彦三、武藤宗右衛門、神戸三七信孝、津田七兵衛信澄、織田上野守、北畠中納言、同伊勢衆をはじめとして、三万騎あまりその手々を争い、だいらこへ諸口より乱入した。海上を働く軍勢として、粟屋越中、逸見駿河、粟屋彌四郎、内藤筑前、熊谷博左衛門、山懸下野守、白井、松宮、寺井、香川、畑田、丹波より働き之衆は、一色殿、矢野、大島、桜井、数百艘催し旗首を打ち立々、浦々、湊々へ上り所々に。園強寺の若林長門父子軍勢を出し、惟任日向、羽柴筑前の両人として屑れずに追い崩し2・300人討ち捕えて、両人の居城に乗り込み焼き尽くした。8月15日に首を敦賀へ進上して、信長のお目に懸けられた。

8月15日 夜に入り府中の龍門寺の三宅権丞が立て籠もる砦に忍び入り、乗っ取り近辺を放火した。木目峠、鉢伏、今城、火燧城に在城の者共の跡を焼き立て、潰した。府中をさして罷り退いたのを羽柴筑前守、惟任日向守両人として府中の町にて賀州越前西国の一揆2000騎切り捨て、手柄の程是非に及ばず。阿波賀三郎、阿波賀輿三兄弟は赦免の詫び言うけれども許容されなかった。原田備中に仰せつけ生害させられた。

16日 信長 敦賀とお成り立ち馬廻り、その外10000騎余り召し連れ、木目峠を打ち越え府中の龍門寺へ。三宅権丞の砦まで寄せ、陣をここにおいて、福田三河守に仰せつけ路次のために警固として今城に置かせられた。下間筑後、下間和泉、専修寺の山林に隠れているところを引き出し、首を斬り、これを宮筍へ朝倉孫三郎が首を持ち来て、赦免の詫び言うけれども同心が無く、向駿河に仰せつけて、生害させられた。ここにて希異な働きがあり、次の様子であった。孫三郎 家来の金子新丞の父子と山内源右衛門という者の両三人が追い腹を仕り、これらの働きを見られて、向駿河 威し消えた。

8月18日 柴田修理、惟住五郎左衛門、津田七兵衛の両三人は、鳥羽の城へ取り懸かり、責め破り、5・600斬り捨てられた。金森五郎八、原彦次郎、濃州口より郡上表へ働き、によう、とこの山より大野郡へ打ち入り数か所の小城共を攻め破り、数多く斬り捨て諸口より手を合わせ、放火することにより、国中の一揆は既に致し、取る物も忘れ取りもあえずに右往左往に山々へ逃げ上った。推し次第山林をくまなく捜し、男女隔てなく斬り捨てる旨を仰せつけ出し、8月15日より、19日まで到着した諸手により、溺れ捕えられた進上した分は、1万2250余りと記す由なり。小姓衆へ仰せつけて誅させられた。その外、国を奪い取りに来た男女知らず捕まり誅させられたる分合わせると34万にも及んだ。

8月23日 一乗谷へ信長は陣を移られた。参陣は、賀州まで稲葉伊代父子、惟任日向守、羽柴筑前守、永岡兵部太輔、別喜右近、打ち入りの趣の時に注進があった。

8月28日 豊原へ陣を寄せた。去るほどに堀江、小黒の西光寺の連々が上る筋目にて面のお礼に上る。賀州能美郡、江沼2郡の属する手として、檜屋城、大正寺山、2つ拵えて 別喜右近、佐々権左衛門、井堀江、を加えて、入れ置いた。10日あまりの内に賀州、越州の両国に仰せつけ威光は中々無き計であった。

9月2日 豊原より北庄へ信長が越えられて城取の縄張りをされられ要害になるように仰せつけられ、北庄の普請場にて高島を打ち下し 林興次左衛門を生害させられた。事の子細は先年の志賀の陣の時に浅井・朝倉を引き出し、早船にて錆矢と射ち懸け緩怠にて悠々のための遺恨であった。

越前国 柴田修理亮、8郡を下され、大野郡の内三分の二を金森五郎八に仰せつけ、三分の一を原彦次郎に下され、大野郡に在城となった。

府中の足掛かりの砦として、不破彦三、佐々蔵介、前田又左衛門、両三人に二郡を下され在城したなり。

一、敦賀郡 武藤宗右衛門 在地なり。惟任日向守、ただちに丹波へ働くようとの旨なり

一、丹後国 一色殿へ参られる。

一、丹波国 桑田郡、舟井郡、細川殿へ進上された。

荒木摂津守 これも越前より、直ちに播州の奥郡へ働き、人質を執り固めて参るよう旨を仰せつけられた。

9月14日 信長 豊原より北庄まで馬にて納めれて、瀧川左近、原田備中、惟住五郎左衛門の両三人として、北庄の足羽山に陣屋を普請するように仰せつけられて、馬廻り衆、弓衆、歴々を固く前後に結んで、砦のさ中々に催し興事のため、賀・越の両国の諸侍を馳せ集めて、縁がある帰参させ、門前の市が成ると賀州の一揆共は信長が帰陣の由にあると承け及んで、軍勢を出したので、羽柴筑前守が興天の所の由にて、懸かりつけて及び一戦の究極の者の首数250あまり討ち捕え、これにより帰陣した。

掟の内容は、省略しました。

このように仰せつけ、9月23日 北庄より府中まで出て、24日つば井坂に宿泊し、25日垂井に陣泊まり、26日に岐阜に帰陣した。

解説

織田信長によって、朝倉義景が滅ぼされた後に家臣であった前波吉継が越前を管理していた。しかし、同様に織田信長に属する旧朝倉家家臣の富田長繁を中心に前波吉継の内政に反発するようになり、ついには土一揆となった。

1574年に富田長繁を中心とした一揆が前波吉継を攻め、殺害。次々に越前国内の城を攻める。途中で、敵対関係になかった魚住一族を無闇に滅亡に追い込んだことで、一揆衆の長繁に対する不信感が生じ、富田長繁は追いやられる。代わりに加賀一向一揆を指示していた杉浦玄任などが大将となる。これにより、一向一揆となる。

この後、一向一揆が朝倉家旧臣の城を攻め滅ぼし、越前国を掌握した。

織田信長は、この間に他の勢力との戦いに忙殺され、越前国への出兵ができなかった。5月に長篠戦いで武田勝頼に勝利して、越前の仕置きに入ることになった。

結果からすれば、半月ほどのないようであった。戦という戦は10日ほどで終わり、残りは政務の措置に時間を割いた印象であった。この一揆によって、朝倉家の旧臣達は、ほぼ壊滅することになり結果として、織田家にとっては都合がよくなった。また、わずかな時にて、一揆を壊滅させた織田信長の武名が轟いたことは間違いない。

なぜ簡単に攻略できたのだろうか。もちろん長島一向一揆などの激戦を数度経て、一揆に対する戦略、戦術や戦い方を学んでいったこともあるだろうが、最も理由としては、内部崩壊が原因であった。越前国を掌握した一揆であったが、解放したはずの一揆の上層部の苛烈な重税などを行うことによって、次第に各地で別宗派たちの反発状態になり、内部はがたがたとなっていた。そんな状況の中で、圧倒的な兵力の織田信長の前になすすべもなく、連携もとれずに壊滅したのであった。

また、一揆に対する残党狩りも容赦なく数万人が殺害されたという。後の火種となる危険因子は摘んでおくことの必然性を織田信長は絶対となっていた。政治的というより、軍事的にこの宗教と一揆が結びつくととんでもないことになることを一番知っているのである。比叡山の一件以来である。

現代とも一緒で宗教の名のもとに起こす戦い程始末が悪い。神という大義を錦に掲げ、老若男女の見境なく戦いに自ら巻き込みながらもその悲惨さを相手に責め、利用し、執拗に抗うことを正義とし、その上層部は安全な場所で極楽園にいるのだから。そして、その当事者達もその正義に疑問も抱かず、むしろ喜んで進んでしまう恐ろしさである。

いい加減に神の名を利用するのをやめて頂きたい今日この頃です。

どうすれば良いのかと思えば、日本の神社が良い例ではないかと思われる。神様に対する畏敬の念はそのままにそれを悪用しようとする組織がないのだ。無理に他者に強要しない。好きな人が各々参拝するだけ、皆で行うのも祭事のみである。

神社を利用した一揆は聞いたことがない。仮に仏教ではない一揆であったとしても神社の神様を錦に掲げた一揆はないのではないだろうか。

キリスト教もイスラム教もユダヤ教、仏教も一つの神様として、神社のように好きな人が好きなように参拝すれば良いのである。唯一無二の絶対神とするから、矛盾が生じ、対立が生まれ、戦争になるのである。

しかしながら、一度洗脳状態にある人に助言してもほどんど効果がないことは明白であろう。であるならば、織田信長のようにしなけらばならないのだろうか。それともマトリックスのように丸ごと別世界に移動させるしかないのだろうか。真に平和の世界とは、他者の考えを許容できる寛容さと他者に強要しない事なのかもしれない。果たして、それはいつ訪れるのであろうか。

参考資料

参考資料 

1.信長公記 国立図書館デジタルコレクションにて、ダウンロード閲覧できます。 所々、旧字なので難しいです。

2.地図と読む現代語訳信長公記 中川太古 訳 株式会社KADOKAWA                        すごくわかりやすいです。参考にさせていただきました

3.地図作成 国土地理院地図 ベクター地図 色々編集できます。おすすめです。

4.信長の天下布武への道 谷口克広

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