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信長公記 解説 太田牛一 写本私的翻訳 1573年 室町幕府 崩壊 

目次

松永久秀 赦免

1573年 冬に松永右衛門佐が赦免により多門の城を明け渡した。ただちに山岡対馬守が定番のために多門に赴いた。

正月8日 松永弾正 美濃の岐阜城へ罷り下り、天下無隻の名物 不動国行を進上して礼を述べた上に以前には世に隠れ無き名刀藤四郎を進上したなり

将軍 足利義昭 謀反

そうするうちに将軍足利義昭が内々に謀反を思い企てており、子細が隠れ無きこととなった。道理に外れた働きは勿体ないと去年に17条の意見の次第を出した。(17条の内容は、省略しました)

この意見を申したところ、金言を逆に耳にするところとなり、遠州方面の武田信玄が差し向かい、北近江方面は、浅井下野守、備前守父子、越前の朝倉の彼らの大軍と取りあい、虎御前山の番に手が半ばにて、方々で手塞がりになっていると下々が申すので、そういうことになったのかもしれない。そうであるが、信長年来の忠節むなしく、この事都では、嘲笑になり、無念におもっていた。日乗上人、島田所之助、村井長門守の三人を使者として、将軍に人質と誓紙を進上するようにと種々様々に趣いたけれども和談することなかった。結局、光浄院、磯貝新右衛門、渡邊、などの者内々に褒美を加える詞を与えて、彼らの才覚にて、今堅田へ軍勢を入れ、石山に砦の足がかりを構えた。ただちに追い払うように柴田修理亮、明智十兵衛尉、蜂屋兵庫頭、四人に仰せつけた。

2月20日 出立し、24日に勢田を渡海し、石山へ取りかかり、ここに山岡光浄院を大将として、伊賀・甲賀衆を加えて、在城していた。けれども、いまだに普請も半ばであるときであった。

2月26日 降参・恭順し、石山の城を退散したので、ただちに城を破却させた。

2月29日 辰の刻 今堅田へ取りかかり、明智十兵衛は船を拵え、海手の方を東より西に向かって、攻め立てた。丹羽五郎左衛門、蜂屋兵庫頭 両人は、東南方角より西北へ向かって、攻め立て、ついに午後に明智十兵衛攻め口より乗り破り、軍勢を切り捨てた。頼みの志賀郡はほとんど静かになった。明智十兵衛 坂本に在城した。柴田修理亮、蜂屋兵庫頭、丹羽五郎左衛門の三人は、帰陣した。(和歌は省略しました)

3月25日 信長 入洛の出馬するところに細川兵部太輔、荒木信濃守 両人が味方として、29日に逢坂まで出迎え、ご機嫌良く、東山智恩院に至りて、信長の諸手の軍勢衆は、白川と粟田口、祇園、清水、六波羅、鳥羽、竹田の在々所々に陣取った。この時、信長は、大ごうの腰物を荒木信濃守に脇差を細川兵部太輔に下された。

4月3日 洛外の堂塔寺庵を除き、放火した。その上で、将軍の返答次第で和睦も可能だと、交渉するけれども許容ないために、容赦しないことにした。翌日、また、砦を押さえたうえ、京を放火し、ここにて守るのが難しくなり、将軍は、和談する旨を第一とした。

4月6日 信長公の名代として、津田三郎五郎が子細に異論が無い事を伺いの上、和議の調印を交わした。

4月7日 信長公 帰陣し、この日は、守山に陣取り、これより直ぐに百済寺へ行き、2、3日逗留した。

鯰江城に佐々木右衛門督が(六角義治)が立て籠もっていた。これに攻められ、佐久間右衛門尉、蒲生右兵衛大輔、丹羽五郎左衛門、柴田修理亮に仰せつけ、四方より取詰め付け城を作っていた。近年、鯰江城、百済寺より一揆に加担することを聞き及んだ。

4月11日 百済寺の常塔・伽藍・坊舎・仏閣ことごとく灰塵なる有様は目も当てられず、その日岐阜に至りて、馬を納めた。

将軍はついに憤慨を休むことなく、天下の敵となるだろう、そのときは、湖を境にして塞ぐであろう。この時のために大船を拵えて、5千も3千も一度に推しつけ越えられるようにと考えた。

5月22日 佐和山へ移動し、座の多賀、山田、山中の材木をとらせ、佐和山の麓の松原へ勢利川を通って引き下し、国中の鍛冶番、匠を召して、大工の岡部又右衛門を棟梁にて、船の長さ30間、横の長さ7間の櫓を100艇作り、艫と舳に櫓をたて、丈夫に作らせ、佐和山にて在城し、油断なく夜も昼も継いで作業し、ほどなく仕上がった。

7月3日 将軍足利義昭は、またも反旗を翻し、二条の砦には、日野殿、藤宰相殿、伊勢守殿、三潤殿を置かれていた。将軍は、真木島に至りて、座を移した注進があった。

7月5日 出来上がったおびただしき大船に上も下も皆驚いた。

7月6日 信長公 かの大船に乗り込み、風が吹き付けたが、坂本口へ渡海し、坂本で泊まった。

7月7日 入洛し、二篠の妙覚寺に陣を構えて、猛勢にて砦を取り巻いた。この大軍に公家衆は耳目驚愕した。詫びを申し、人質を進上し、他にも二篠に同陣しているものもいた。

7月16日 真木島へ信長は出馬され五ヶ庄のやなき山に陣を構えて、ただちに宇治川を乗り渡し、真木島を攻め討破るように仰せ出された。誠に名も高き宇治川の張り下って逆巻流るる大河は果たしなく広く、冷たく、河を打ち越すこと大事なくできるように皆々考えていた。信長は容赦する気色無く、引き延ばすならば、信長公が先陣する旨を伝え、逃げられなくなった。そうして、両手に分けて、河を越えるようにはこのように行うのだと例を上げて仰せ出され、昔、川上の平等院の丑寅より、梶原と佐々木四郎が先陣を争い河を渡った所であるぞと言われた。

稲葉伊予守、息子の右京助、彦六が先陣にて、斎藤新伍、氏家左京助、伊賀伊賀守、不破河内、息子彦三、丸毛兵庫頭、息子三郎兵衛、飯沼勘平、市橋博左衛門、種田助丞、どっと打ち越して平等院の門前へ打ち上がり、鬨の音をあげて、ただちに近辺の揚げて、また、川下の五ヶ庄の前川を西に向かって、越えて軍勢 佐久間右衛門、丹羽五郎左衛門、柴田修理亮、羽柴筑前守、蜂屋兵庫頭、明智十兵衛、荒木摂津守、長岡兵部太輔、息子興一郎、蒲生右兵衛太輔、息子忠三郎、永原筑前守、進藤山城守、後藤喜三郎、永田刑部少輔、山岡美作守、息子孫太郎、山岡玉林、多賀新左衛門、山崎源太左衛門、平野、小河孫一、弓徳左近兵衛、青地千代、京極小法師、池田孫次郎

7月18日 巳の刻 雨口 一度に先手先手を争い、中島の西に向かって、どっと打ち渡、誠におびただしく大河、威光をもって難なく打ち越し、しばらく人馬息を整えて、その後、真木島へ心がけ、南向きに旗首を揃え、真木島より出る足軽を追い立て、佐久間右衛門、蜂屋兵庫頭、両人随分の首50あまりを討ち捕えた。四方より、真木島の外砦を乗り越え、破壊し、焼き攻めらた。

将軍足利義昭の廓の者がこれよりも過ぎたる砦は無いと思ったけれども今は動くことも詮無きこと、手前の一戦に取り結んだ。今度、将軍にさせるにも不足も無いところ、程なく恩を忘れ敵になり、ここにきて、腹を召させれば天命おそろしく、今後の行動に影響あると思うに儘にあればからそ、命を助け流し恭せられ、先々の人にて、批判にのせさるべきことにする。将軍の子供の若い公様を留置き、怨みを恩をもって、報せることによって、河内国若江の城まで、羽柴筑前守秀吉の警護にて送り届けた。誠に日々の輿車美しく化粧を施し、歴々の上、闊達歩立赤足にて取るも取りあえず、退去した。先年の入洛の時には、信長公が供奉なされ誠に草木も塵計の勢いにて、諸将が並んで前後を守り、果報いみしき公方様と諸人敬うことであったが、此度の引き替えにて、鎧の袖をぬらさせられ、貧乏公方と上下指差し嘲笑をされ、自滅と相成り、この有様目も当てられずであった。

真木島には信長より細川六郎殿を入れ置き諸勢の南方方面に攻められ、あらゆる所を焼き尽くした。

7月21日 京都に至りて、馬を納められた。将軍足利義昭は同意して、叡山の麓一乗寺に足がかりを拵えた。渡辺宮内少輔、磯貝新右衛門、立て籠もっていた。降参して退散し、磯貝新右衛門は、紀伊国の山中に蟄居になった。山本対馬守は原山に砦を構え、敵として居城していた。 明智十兵衛は城を取詰めていた。今度、上京放火にもって町人たちに迷惑になっていたので、地子銭・諸役などを免除させられ、かたじけない事だとを聞いて、即時に町々家屋を元の如くに出来上がった。

天下所司代 村井長門守に任命されて、在洛して天下諸色を調整した。

考察

将軍足利義昭は、なぜ信長に反旗を翻すことになったのだろうか? そして、いとも簡単に失敗してしまったのか

畿内の情勢をわかりやすく、色にて変化を見てみよう。複雑な群ごとの国衆や国人の勢力変化は割愛しています

松永久秀により、三好三人衆・淡路の安宅氏、讃岐の十河氏、阿波の三好長治等と和睦し、畿内が平和になる

ここで問題が起きる1571年5月、松永久秀の息子である久通が家臣である安見右近が摂津の和田惟正、河内の畠山秋高らと共に敵対したとして自害させている。これにより、畿内の情勢が悪化する。将軍足利義昭は、大和の筒井順慶に九条家の娘を嫁がせ、味方にする。

これには、松永久秀と三好三人衆が対立していた時には、松永久秀と和田惟正、畠山秋高は味方であった

しかしながら、三好三人衆と和睦がなり、三好家が一つにまとまったことによって、和田惟正は、摂津半国を取り返せなくなり、畠山秋高も領土拡大できずに同様に面白くなくなったのだ。松永久秀にとっても、三好家がまとまっているために味方である必要がなくなったわけである。

一方、将軍足利義昭は、一人でも自分の見方を増やしておきたくて、三好義継・松永久秀と筒井順慶と軋轢などお構いなしにことをすすめてしまったのである。

このために筒井順慶と敵対関係にあたっていた三好義継・松永久秀・三好三人衆・阿波の三好長治、讃岐の十河氏、淡路の安宅氏が将軍足利義昭と敵対することとなる。

③三方ヶ原の戦いにて、武田信玄が徳川・織田軍を撃破し、勝利したと連絡が入り、ますます反信長網が勢いづく。

ついに焦っていた将軍足利義昭は、家臣の進言もあり、反信長に転じる。これにより、三好義継などと同盟し、織田信長が追いつめられることになる。

しかしながら、実際に将軍足利義昭が反信長を掲げたのだが、反信長包囲網は全く機能しなかったのである。

①頼みの武田信玄が4月12日に亡くなっていたので、それ以上進軍できずに甲斐に戻っていった。

②主家の池田家を追放し、実権を掌握した荒木村重が織田信長に味方をした。はじめに三好三人衆に応じた池田氏が同じ摂津の和田惟正・伊丹氏・茨木氏を白井川原の戦いにて、荒木村重が勝利すると池田家の中で、影響力を高めていき、独自路線へと歩んでいった。

③大和の筒井順慶は、6月に九条家の娘をもらい受けているが10月に明智光秀の斡旋により、織田信長に臣従している。このためか将軍足利義昭の反信長のときには動きがない。

④同じ大和の松永久秀も将軍足利義昭と同盟のあとになぜか動きがない

⑤阿波の三好長治は、4月に柴田勝家に信長との和睦の条件などはなしており、5月に重臣で反信長派であった篠原長房を攻め、討ち死にさせている。このために阿波、讃岐、淡路、和泉の国に大きな動きがなかった。

⑥河内の畠山秋高は、信長に味方しようとするが6月に遊佐信教に殺されている。

⑦越前の朝倉義景に上洛を促していたが、尻が重たく、機を逃している。

感想

結局、足利義昭は反信長に転じたのだが、武田信玄の死と織田信長の調略などによって、畿内は敵味方の思惑入り乱れる混乱状態になり、その間に迅速な京への進軍により、あっさり潰されてしまった。

ある一面をみれば圧倒的に信長危うしの状態であったが、畿内が元来不安定であったために圧倒的な存在なくしては、おのおのが好き勝手に己の欲望に邁進したと言えるだろう。ある意味で、自滅のように感じてしまうのは私だけだろうか

それとも信長の求心力と調略、情報戦に感服というべきなのだろうか。まさに天運というべきだろう

参考資料

参考資料 

1.信長公記 国立図書館デジタルコレクションにて、ダウンロード閲覧できます。 所々、旧字なので難しいです。

2.地図と読む現代語訳信長公記 中川太古 訳 株式会社KADOKAWA                        すごくわかりやすいです。参考にさせていただきました

3.地図作成 国土地理院地図 ベクター地図 色々編集できます。おすすめです。

4.信長の天下布武への道 谷口克広

5.越前朝倉一族 松原信之

6.浅井長政のすべて 小和田哲男

7.松永久秀と下剋上 天野忠幸

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