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信長公記 解説 太田牛一 写本私的翻訳 1575年 長篠の戦

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新堀城

3月下旬 武田四郎の三州の内にあるあけす口へ出陣のために直ちに信長の嫡男 織田官九郎が尾州衆を召し連れて出陣した。

4月6日 信長は京都より、直ちに南方へご出馬され、その日八幡に着陣され、次の日若江に至りて陣取り、大阪より若江へ差し向かい付城のかいほりへは手槍にすることなく直ちに奥へ通した。

4月8日 三好笑岩が立て籠もる高屋へ取り掛かり、町を破壊し、不動坂口にて相支え押しつ押されつ幾度も戦うなり。伊藤興三右衛門の弟 伊藤二介は度々の先駆けにて数か所の傷を負い討ち死になり。このとき信長は駒ヶ谷山より目の下にご覧になり、所見の事晴れがましき働きであった。その日は誉田の八幡道明寺河原へ取り詰め段々に陣取り、信長は駒ヶ谷山に陣を張らせられ、あらゆる方面へ足軽を仰せ遣わされた。佐久間右衛門、柴田修理亮、丹羽五郎左衛門、塙九郎左衛門、谷という谷に入り込んで、放火し、その上苗を薙ぎ捨てた。

4月12日 住吉へ陣替えをした。

4月13日 天王寺に至りて、馬を寄られ畿内、若狭、近江、美濃、尾張、伊勢、丹後、丹波、播磨、根来寺、四谷の衆らは一人残らず罷りたちて、天王寺住吉から遠里小野近辺に陣取った。

4月14日 大阪へ取り寄せ、作物を薙ぎ捨て軍勢10万騎あまりなり。このように上下におよんで構成する見たことのない大軍なので、都の貴賤皆は耳目に驚いたなり。

4月16日 遠里小野へ信長陣取り近辺の耕作を信長自身で薙ぎせられた。堺の近所に新堀という出城を拵えて、十河因幡守、香西越後守の大将が立て籠もっていた。

4月17日 馬を寄せられ取り巻き攻めた。

4月19日 夜に入り諸手は詰合火矢を射ち入れ、草を入れ攻めさせ大手、搦め手へ切出し、然るに香西越後守を生け捕りにして罷りだし縄に縛られ眼をすがめ口をゆがめ 御前へ参り夜中であったがこの者共香西と見知りて日々の不届き働き仰せ聞き誅させられた。討ち捕えた首は 香西越後守、十河因幡、十河越中、十河左馬介、三木五郎丈夫、藤岡五郎兵衛、東村大和、東村備後、この他屈強の侍170あまり討ち死にした。高屋に立て籠もる三好笑岩は、友人を以って詫びを申し赦免されたなり。塙九郎左衛門に仰せつけ河内の国中の城の高屋をはじめとして悉く破却し大阪一城が落去する時間の問題であった。

4月21日 京都に至りて馬を納め 天下諸色の政務を行った。

長篠の戦

5月13日 長篠の後詰として 信長 嫡男官九郎 御馬を出されその日勢田に着陣され、当社八剣宮の崩壊の状態をご覧になり、造営の儀を大工の岡部又右衛門に仰せつけられた。

5月14日 岡崎に至りて着陣し、次の日まで逗留した。

16日 牛窪の城に泊まり、当城の警護には、丸毛兵頭、織田三河守が置かれた。

17日 野田原に野陣をさせられ、18日に押し詰め 志多羅の郷の極楽寺に陣を置いた。官九郎は、新しく堂山に陣を置いた。志多羅の郷には、一段地形くぼみの所に敵方へ見え無い様に段々に軍勢計3万立ち置いた。先陣は、その国の衆があたる事から、家康がたつみつ坂の上の高松山に陣を構えた。瀧川左近、羽柴藤吉郎、丹羽五郎左衛門の両三人は同じくあるみ原へ打ち上げて、武田四郎に打ち向うように東向きに備えた。家康、瀧川の陣の前に馬を防ぐために柵を設けさせられ彼のあるみ原は、左は風来寺山より西へ太山つづき、また、右は鷲の巣山より西へ打ち続いたる深山なり。岸をのりもと川が山に付いて流れ、両山の北南のあはひに30町には過ぎず風来寺山の根より、滝沢川北より南のりもと川へ落合、長篠の南西は川にて平地の所なり。川を前にあて、武田四郎は鷲の巣山に取上り陣を構えればいずれもなかったのに長篠へは、攻める衆として七首差し向けて武田四郎、瀧澤川と越来し、あるみ原30町計踏み出し前に谷と当甲斐、信濃、西上野の小幡駿州衆、遠江衆の三州の内つくで・だみね・ぶせら衆を相加えて、1万5千の兵を13か所に西向き打ち向い備えて、互いに陣のあわい20町に取り合った。今度は敵が間近く寄合ことは、興天の所であるから悉く討ち果たす旨であり、信長は案に廻り、味方一人も破損しない様に賢意を加えた。坂井左衛門尉を召し寄せて、家康の軍勢の内、弓、鉄砲を扱える人を召し連れ、坂井左衛門尉を大将として2千の兵を持って信長の馬廻り鉄砲500挺、金森五郎八、佐藤六左衛門、青山新七の息子、賀藤市左衛門を検使に添えて、都合4000の兵にて、5月20日 戌の刻にのりもと川を打越て南の深山を廻り、長篠の上鷲の巣山へ

5月21日 辰の刻に取り上り旗首を押し立て、鬨の声を上げて、数百挺の鉄砲をどっと放ち懸責衆を追い沸き、長篠の城へ入り、城中の者と一緒になり、敵陣の小屋小屋を焼き上げ、籠城していた者は忽く運を開いた。七首の攻衆は案の外の事にて癪も忘れ、風来寺めざして敗北した也。

信長の者 家康の陣所は高松山という小高き山に座し、取り上り敵の働きをご覧になり、かねてより下知の次第によって働くようにきつく仰せ含んだ。鉄砲1000挺を佐々蔵介、前田又左衛門、野々村三十郎、福富平左衛門、塙九郎左衛門を奉行として近々と足軽懸けられご覧になり、前後より攻められ敵も軍勢を出し、一番山懸三郎兵衛は推し太鼓を打ちて懸かりくるのを鉄砲を以って散々に打ち立て引き退がるなり。二番の正用軒に入れ替わり、敵が懸かれば引き、敵が退がれば引き付けて、下知の如く鉄砲にて過半の人数打たれ、その時に敵引き退いたなり。三番に西上野の小幡一党赤武者にて入れ替わり懸かり来る関東衆馬上の功者にてこれまた馬を入れることができたことによって、押し太鼓を打って懸かりくるのを軍勢備え身をかくして鉄砲にて待ち受け打たせられれば過半打ち倒され人が無くなったために引き退がった。 四番に 典厩一党黒武者にて懸かり来る如しこの敵入れ替わるがこちらの軍勢一首も出さずに鉄砲を加えた足軽にて総勢ねり倒され軍勢を討たせ引き入れたなり。五番に馬場美濃守が推し太鼓にて懸かり来る軍勢に備えて、同様に敵の軍勢衆討たれ引き退いた。

5月21日 日の出より卯の方へ向かって未刻まで入れ替わり替わり相戦い諸卒を討たせ次第次第に人が無くなって何れも武田四郎の旗本へ馳せ集まり、叶うのは難しいと考えて風来寺を目指して、どっと敗軍致す。このとき前後の軍勢衆を乱し追いせられ、討ち捕えた首知る分に山懸三郎兵衛、西上野小幡、横田備中、川窪備後、さなた源太左衛門、土屋宗業、甘利藤敷、杉原日向、なわ無理介、仁科、高坂又八郎、興津、岡部、竹雲、恵光寺、根津甚平、土屋備前守、和気善兵衛、馬場美濃守、中でも馬場美濃守の討ち死手前は比類なき働きであった。このほかの宗徒の侍雑兵1万あまり討ち死にあるいは山へ逃げ上り、飢え死に橋より落とされ川へ入る水に溺れるなど際限がない。武田四郎の秘蔵の馬を小口にて乗り損したるを一段乗り心地の比類なき駿馬の由にて信長厩に立ち置きて、三州の儀を仰せつけられた。

5月25日 濃州岐阜に帰陣。今度の勢いをもって家康は駿州へ乱入し、国中焼きつくして帰陣した。遠州の高天神の城、武田四郎は抵抗したが落ちるだろう。岩村城の秋山、大島、座光寺によって、大将甲斐・信濃軍勢立て籠もっていた。直ちに織田官九郎は、軍勢を寄せて、出馬し城を取り巻いたことによって、このことが落着したのは勿論の事であろう。

三河・遠江の両国仰せつけになり、家康年来の愁眉を開き、念願に達せられた。存分に昔もこのように味方無慈悲にて、強敵を破ったことはなかった。武勇の達者な者は、武者の上の鏡なり。朝露が照日の輝きに消え宛てるが如し、武・徳の者は、車輪なり。信長が後の世に名を揚げる欲あれば数年の山野・海岸を晒しとし、甲冑を枕とし、弓矢の者が本意の業のために打ち続けた辛抱という辛抱は申し足らないものである。

考察

長篠の戦いといえば、日本の合戦としても三英傑の合戦としても有名である。そんな長篠の戦いを改めて、信長公記で読んでみると以外であった。まず、坂井左衛門こと酒井忠次が長篠城を救うために山越えをして、鷲の巣山の砦を攻したことについてであった。従来のイメージや三河物語では、酒井忠次の案もしくは、徳川家康の案のように思われていただが、信長公記では、信長の案となっていた。どちらの案としても自分の手柄としたいとはあると思うが、酒井忠次の軍だけでなく、『信長の馬廻り鉄砲500挺、金森五郎八、佐藤六左衛門、青山新七の息子、賀藤市左衛門を検使に添えて、都合4000の兵にて』とあり、全体としてもかなりの兵数を送り込んだことになる。それだけこの戦において、長篠城は最も重要な転換になったことである。

次に始めから、信長はこの戦いにおいて決戦を決める覚悟であった。極楽寺に陣を構えた時に『一段地形くぼみの所に敵方へ見え無い様に段々に軍勢計3万立ち置いた。』とあり、敵軍に大軍であることを知られたくなかったのである。信長は、武田勝頼が高天神城の戦いなどに勝利して、調子に乗っていると感じ、また、信玄の三方ヶ原と同じように蹴散らしてくれようと自信があったに違いないと思っているはずだと感じ、きっと、全軍で戦うにだろうと考えたのだろう。そして、戦いの勝敗を決め、有名な合戦ともなった鉄砲である。数千挺に及ぶ鉄砲を用意していたことだ。無論、堺を握っていたことは言うまでもない。三方ヶ原の戦いから、敗者である者は、敗北した理由を考え、勝利するための策を考えるのは当然なのである。そのために大量の鉄砲を用意したのである。しかしながら、敵の武田勝頼が向かってこなければ、戦いにならないのである。そのためにまず、信長の軍が大軍であることをできるだけ知られては、まずかったのである。

 そして、自分たちにとって、有利な場所に陣を構えて、そこに向かって欲しいのである。それが先に長篠城の救援であった。長篠城の救援及び周辺の武田方の砦の陥落によって、背後に敵を迎えることになったのである。そのために前に出らざる負えなくなったのである。まさに信長の思い描いた通りになってしまったのである。

では、武田方の視点で考えて見る。まず、先に述べたように武田勝頼は、著しく勝てる自信と焦りがありすぎたのだ。そのために冷静な判断ができていなかったと思われる。焦りとは、何かにつけて父信玄と比較されることにも苛立ちを覚えていたはずだ。これは、現代にでも通じることだが、あまりにも偉大な父親だった場合にその重圧に潰されることが多々ある。武田勝頼もそうであったのかもしれない。先の勝利によって、自信がついた所、信玄ができなかった信長との戦における勝利である。それこそ信玄を超える千載一遇の機会だと思っていたのではないだろうか。重臣達に止められたにも関わらず、冷静な判断ができずに強硬したために敗北したのであった。

この戦が契機となり、武田軍は壊滅と向かうことになる。重要な戦いであったことは事実である。

では、武田勝頼はどうすればよかったのか?信長公記に『川を前にあて、武田四郎は鷲の巣山に取上り陣を構えればいずれもなかったのに』と書かれている。つまり、鷲の巣山に本陣があれば、酒井忠次の迂回攻撃を回避、もしくはすぐに陥落することはなかったはずなのである。その間に長篠城を陥落するべきであったのだ。信長、特に家康にとって、大事な拠点となる長篠城を敵に陥落させられては、軍事としてもそうだが、周辺の豪族たちにも心理的影響が大きく、高天神城に続いてなので、離反する者たちが増える可能性も十二分にあるのだ。だからこそ、信長に援軍を頼んだに違いない。であるからにして、本来ならば焦っていたのは家康なのであったのだ。長篠城を餌に誘い出したのだから、さらに有利な状況にせねばならなかったのを油断したのである。策が信長・家康をおびき出すだけで、終わっており、こちらは兵が強いから勝てるという自信だけで戦ったのである。結局、誘うつもりであったのに誘われてしまったのである。

結果論で語るのは、至極簡単である。大事なことは、単に勝った負けたではなく。どうして、そうなったかを分析することである。

数々の負け戦のポイントをあげるならば、過剰な自信による油断ではないだろうか。桶狭間の今川義元も同様に相手は、小軍だと油断したためであった。普通ならば不利な相手は、降参するか、そのまま正面攻撃をして敗北するのが常である。しかしながら、歴史に名を残す武将というのは、絶対的不利な状況でも決してあきらめずに戦略をたて、むしろこの状況でこそ勝てる自信さえあるのである。それは、やはり、いかに戦略を考え、準備を入念に行っていたかではないだろうか。何も考えていない人間からすれば無謀にも思える行動には、意味があるのである。朝令暮改のように次々に指示が変わることに理解ができていないのは、考えが浅いからである。このことは、現代の我々にも相通じることだろう。

参考資料

参考資料 

1.信長公記 国立図書館デジタルコレクションにて、ダウンロード閲覧できます。 所々、旧字なので難しいです。

2.地図と読む現代語訳信長公記 中川太古 訳 株式会社KADOKAWA                        すごくわかりやすいです。参考にさせていただきました

3.地図作成 国土地理院地図 ベクター地図 色々編集できます。おすすめです。

4.信長の天下布武への道 谷口克広

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