1560年5月19日 桶狭間の戦い 織田信長 対 今川義元
桶狭間の戦い 誰もが知っている有名な合戦ですよね。
えっと、織田信長が勝った話でしょう
そうです。何倍もの大軍を小軍で打ち破った織田信長は、戦国時代の革命児となったきっかけとも言える合戦だと思います。
何倍もの大軍を小軍で勝ったのか、すごいですね。
でも、どうやって、勝ったのですか?
小軍で大軍を打ち勝った理由を明確に断言できる証拠や資料などは、見つかってないんですね。
定番の奇襲攻撃説の『信長記』をはじめ、現在有力視されている『信長公記』などの資料を基にこうではないだろうかと解説されています。
そうなんですね。明確な理由を知りたいですが
そもそもどんな合戦だったのですか?
それでは、現在、信憑性が高いと言われている『信長公記』を基に解説してみましょう。後半では、個人的考察も書いてます。
ぜひ最後まで、読んでください。
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桶狭間の戦いの背景
織田信長の父・信秀の頃より、領土拡大に伴い、西尾張にある今川氏と戦っていた。
信秀の死により、鳴海城の山口教継・教吉が裏切りや大高城が今川方になっていた。
このため、信長は鳴海城、大高城を囲むように丹下砦、善照寺砦、中島砦、鷲津砦、丸根砦を築き、包囲した。
そのころ、今川義元は甲斐の武田信玄、相模の北条氏康と3国同盟を結び、後顧の憂いがなくなり、尾張制圧へ大軍をもって進軍した
一方の迎え撃つ織田信長は尾張を統一したばかりであるため、国衆などの信頼や影響力はこの時はまだ小さかったために大軍を要することができず、また、美濃の国の斉藤道三が義龍に敗れ、後顧の憂いもあり、籠城戦が考えられていた。
織田信長とは
1534年誕生、幼名吉法師。14歳にて、初陣。1551年信秀が病死。18歳にて、家督を相続
1560年 桶狭間の戦いにて、今川義元を討つ。1567年 稲葉山城を攻略し、岐阜と改め、居城とする。
1568年足利義昭を奉じて、上洛。1570年浅井長政・朝倉景健と姉川の合戦。1571年比叡山焼き討ち
1573年足利義昭追放、室町幕府滅亡。浅井・朝倉家滅亡。1575年長篠の戦にて、武田勝頼敗走
1576年安土城を築城。1580年石山本願寺撤退。1582年6月本能寺にて、明智光秀に攻められ、自害
今川義元とは
1519年今川氏親の三男として誕生。1536年家督を相続。1537年武田信虎の娘を正室に迎え甲駿同盟を締結
1548年第二次小豆坂の戦いで織田信秀に勝利。1554年嫡子・今川氏真に北条氏康の娘を嫁がせ甲相駿三国同盟を結成
1560年織田信長との桶狭間の戦いにて討死
甲府・相模・駿河 3国同盟とは
甲斐の武田信玄、相模の北条氏康、駿河の今川義元の3か国が1544年に同盟を結んだこと。
甲斐の武田信玄は、信濃攻略へ、 相模の北条氏康は関東攻略へ、 駿河の今川義元は尾張攻略へ
3者の思惑が一致したことが締結に至った。
簡単な説明になりました。いずれ3国同盟についても解説したいと思います
5月12日 今川義元 駿府城を出陣
5月12日今川義元4万5千の大軍で駿府より出陣
5月17日に沓掛城に入城
5月18日 深夜 大高城に兵糧を届ける
5月18日 深夜、織田軍に包囲されている大高城に松平元康隊が兵糧を届けた。
松平元康 後に徳川家康と改名する。いわずと知れた徳川幕府400年の開祖神君家康公
5月19日 鷲津砦・丸根砦に攻撃がはじまる
織田信長の居る清洲城へ
丸根砦の佐久間盛重、織田秀敏から、
19日の朝、潮の干満の頃をみて、敵方が砦を攻撃してくる事は必定と注進あり。
しかしながら、軍議にはならず、世間の雑談話のみになり、夜になり帰宅の許可となる。
家老達は、機運の末は知恵の鏡も曇るというがこの時かと、皆嘲笑った。
知らせを聞いた織田信長
5月19日 夜明け方に大高城を包囲する織田軍の丸根砦、鷲津砦を攻撃の知らせが入り
織田信長、人間50年下天の内を比ぶれば、夢幻の如くなり この世に生を受けて滅せぬ者などあるなしやと敦盛を舞い、
法螺貝を鳴らし、具足をつけ、立って食事をし、兜めしいて、出陣した。
この時、小姓衆6騎のみを伴い、熱田神宮まで駆けぬけた。
辰の刻、東を見ると、鷲津、丸根砦から、煙が上り、陥落したと思われる。
小姓衆6騎、雑兵200人程になり、丹下砦に移動し、
さらに善照寺砦に移動し、部隊を揃え、戦況を見据えた。
今川義元の動き
今川義元は、4万5千の兵を率いて、桶狭間山に休息していた。
今川義元、部隊を北西方向にむけ、陣を構えた。
午の刻、鷲津砦・丸根砦を攻め落とし、満足これなしと謡を3番うたった。
丸根砦を攻撃をしていた朱色具足の松平元康隊の損傷と疲労のために一旦大高城に陣を移動し、休息。
信長が善照寺砦まで来たことを知り、佐々蔵人正、千秋四郎の二人が兵300を率いて、
義元に攻めるが佐々蔵人正、千秋四郎ら50騎が討ち死に。
これを見て義元は、わが矛先に天魔鬼神もおしだまる、心地よし。と喜んで謡をうたわせ、陣を構えた。
織田信長の動き
信長が戦況を見て、中島砦に移動するというのを家老が脇は深田になり、道は1騎通れるかの道のため敵方から無勢の様を見られては、もったいなきと、家老衆が馬の轡に取り付いて、口々に言われたがそれを振り切って、中島砦に移動した。
この時兵の数は2000にも満たなかったが、中島砦より出撃を言われたが無理にすがり付いて止めようとしたのをさえぎられ、こう言われた。
敵兵は、夜明け前から大高城に兵糧を入れ、鷲津丸根砦攻略に手をやき疲労しきっている。
こちらは新手の兵である。
小軍でも大軍を恐れず、天運はこちらにあるというを知らないのか
なお、敵が懸かれば退き去り、引き付けて倒し、追い崩す
敵を倒しても分捕らず打ち捨てておけ、戦に勝てば、参加したるもの家は末代まで面目高名となる
ただ働けと仰せになった。
敵の首を手に手に持ってきた前田利家ら7人にもこの旨を仰せになった。
織田信長が義元本陣を襲撃
山際まで部隊を寄せたところ、俄かに急雨が石氷を投げうつように降り出し、
敵の顔に打ち付け、味方には背から降りかかる。
沓掛峠にある松の本に2かい3かいある楠が東へ倒れる。
この事は熱田大明神の神軍かと言った。
空が晴れるの見て、信長は槍を持って、大音響を上げて
すわかかれと仰せになった。
黒煙をたてるように攻めると敵は水をまくるかごとき、後ろ後ろへつき崩れた。
弓、槍、鉄砲をほうりだし、旗差し物など乱し、今川義元の塗輿も捨てて逃げ出した。
信長は旗本へこれへこれへ懸かれと仰せになった。
未の刻、東に向かってかかり、はじめは300騎一丸となって義元を守り、退けるが
2度3度4度5度と切りかかり次第に減り、50騎ほどになり
信長自ら馬を降り、若武者とともに先を争い、つき伏せつき倒し、いらつく若者乱れかかり、しのぎを削り、鍔をわり、火花を散らし、混然敵味方となるが旗の色にてわかった。
馬回り、小姓の歴々手傷や死人も多数。
織田信長の勝利
服部小平太が義元にかかりあうが膝を切られ倒れる。
毛利新介が義元をつき伏せ首をとった。
これには、先年、清州の城の武衛様を殺されたときに弟を助けた冥加がここにきて
義元の首をとることができたのだろうと人々が話した。
敵方の運がつきたることや桶狭間というところは、せまくて田が深く足が入り、茂みが高いところだ。
この深田へ逃げ込んだ者は、身をさらしながら這いずり回るところを若武者に追いつかれ、首を取られた
手に手に首を持参するもいずれも清州の城にて実験すると仰せられ、
義元の首をご覧になり、満足され、出陣された道から清州に帰陣された。
織田信長の大勝利で終わったのだった。
考察①背景
考察
近年では、従来の奇襲作戦ではなく。正面からの進軍撃破の説が有力視されている。
しかしながら、数々の織田軍の合戦状況から、2000の軍勢で
布陣図はわかっていないが中島砦に向かって、部隊が展開されたことは間違いないだろう。
義元5000,井伊直盛 2000、松井宗信 2000、その他を次々に撃破していくのは、武田や上杉でもない限り、にわかには信じられない。
また、前衛部隊があれば敵が進軍してきたことは、明らかなので、本体に急ぎ伝令があるはずで、そうでなくても戦の最中であるため気づく可能性が高いと思われる。
仮に負け気味であれば撤退することは可能なはずで沓掛城や大高城に行けるはずである。
それなのにわずか旗本300兵に守られるだけとは、不可思議である。
考察②正面攻撃について
正面からの攻撃で勝利したとした場合で考えてみると
1.元々大軍で攻めていたこともあり、多少油断していたが砦陥落などにより、さらに油断したことはあきらかだが
嵐のような石水混じりの大雨により、半ば避難していたおり、晴れたと思ったら、目の前に織田軍が現れ驚天動地、
一目散に逃げだし、ほとんど戦わずに散り散りに撤退、その勢いに乗り、義元本体に進撃。
義元本体は、さらに突然の敵になすすべもなく、総崩れ 義元の親衛隊のみ残り、あえなく最後となる。
しかしながら、直前に織田軍の前衛佐々政次、千秋四郎ら部隊は討ち取られていることからいることを考えると
織田軍が2000に増えたから、圧倒的に強くなったとは考えにくい。
であるならば、嵐のような大雨しかないのである。
戦国の革命児である織田信長がまともな策もなしに本当に天運任せだけだったとは、信じらない。
ただのラッキーだったのでしょうか?
考察③乱取説について
2. 最近では、乱取中に奇襲されるという説があるらしい
佐々、千秋ら部隊の攻撃敗退で、その日の合戦は終了したものとして、今川軍では、乱取りがはじまり、皆散り散りになっていたところを信長が奇襲したという事である。
そんな馬鹿な、いくなんでも目の前の砦に信長が来ていることは、当然承知のはずである。
合戦では、夜になっても夜襲を警戒するように考えるのが当然である。
今川軍自体が夜中に兵糧届けたり、夜明け前に砦を攻撃したのに午後過ぎたから、今日は、これで終わりねとは、聞いたことがない
義元本陣ならともかく前衛部隊らが目の前に敵が終結しているのを把握していながら、いそいそと乱取りに出掛けて、警戒していないとは甚だ信じ難い。
考察④やはり奇襲作戦と思う その1
個人的には、奇襲作戦がやはりしっくりくる。
中島砦から義元本体の桶狭間山までの距離は約3kmである。
実際の距離感でいうとわりとあるのだ。(ご自身の住んでる家から3km先を調べてほしい。意外と遠い)いくら桶狭間山の上に陣があれど、その先にいくつも小さな山があるため、直接見下ろすことができないため、敵部隊の把握は簡単ではないと思われる。
しかしながら、前衛部隊は中島砦を直接見下ろせる山に陣取っていた場合はそうはいかない。
距離にして1km程度なので目視により確認できる可能性は高い。
そのため、山の下から軍勢が上がってくればいくら大雨でも気づかないわけがない。
一寸先も見えない状況の大雨ならば、むしろ織田軍はどうやって進軍したのかそちらのほうが不思議になるのだ。
ではどうなるかというと、それより以前に移動していた可能性を考えたい。
中島砦に到着してまもなく、状況を確認後、すぐさま善照寺砦に引き上げると見せかけて迂回移動した。
こうなるとさらに敵は、逃げたなと判断し、義元本陣にもそのように連絡が入れば、なお油断したに違いない。
そもそも大高城を囲んでいた丸根砦、鷲津砦が陥落したならば鳴海城を囲む丹下砦、善照寺砦、中島砦が次に攻められることは明白で、中でも中島砦は中州にあり平地でもあるため、攻められやすい。
逆側の視点でみれば、今川軍が勝っているその勢いで、中島砦に攻めて来てもおかしくないように思われる。
弱気に考えると、大高城から、鳴海城から、桶狭間から、沓掛城から、敵が進軍してくる可能性もなくはないのである。そうなれば被害甚大で、大負けになる。
考察④やはり奇襲作戦と思う その2
そもそも、信長が籠城戦ではなく、家臣さえも騙して、この時を待っていたのは、なぜかである。
丸根砦、鷲津砦を攻撃し始めた連絡を受け、敦盛を舞ったのである。
生きるか死ぬか、どうにかできないのかと考えないわけがない
一か八かの賭けだが今川義元に勝つには、これしかないと考え抜いた策の状況になり、決したのである。
その策が単なる正面からの攻撃とは、いささか信じがたい。
前衛部隊と攻撃している間に今川本体に逃げられては意味がないのである。
直接、本体に攻撃したいのである。
ならば、中島砦から善照寺砦に信長は逃げたぞと思わせる。
そう思い込んで、悦になっている義元本陣に奇襲をかけるというのは理にかなっていると思われる。
当然ながら、今川義元出陣の前からの情報により油断させ、丸根砦、鷲津砦陥落でさらに油断、
そして、この戦いの最もポイントとされる嵐のような石水交じりの大雨がまさに天運であったこと。
考察④やはり奇襲作戦と思う その3 重要箇所
重要な一文をないがしろにしていると思います。
信長公記にこう書いてある。
山際まで部隊を寄せたところ、俄かに急雨が石氷を投げうつように降り出し、
敵の顔に打ち付け、味方には背から降りかかる。
沓掛峠にある松の本に2かい3かいある楠が東へ倒れる。
この事は熱田大明神の神軍かと言った。
沓掛峠である。
沓掛峠の場所であるが沓掛城より西にあり、二村山の麓に沓掛峠前と地名が残っている。
この場所に大きな楠があったならば、大雨の中、大木が倒れるのを見るには、ある程度近寄らなければ見ることは難しいであろう。
そして、中島砦から見るには、間に山があり見えない上に4km以上離れており、どうやって沓掛峠の大木を見るのか
現在の中京競馬場があるあたりがおけはざまやまと二村山との間の小山になっている。
正面攻撃であるならば敵がもう目の前にあり、今から攻撃という時に遠くの山を見るそんな余裕があるのか、不思議である。
であるならば、やはり、中島砦もしくは善照寺砦から東に移動し、現在の中京競馬場あたりの山際に来た前後で、
嵐のような大雨や雷にあい、大木の楠が倒れたのを見たのである。
この場所からだと直線であり、かつ、1km程度なので大木ならば見えてもおかしくはない。
そしてそのまま、おけはざまの山に攻め寄せたところ、
義元本陣では、なにかあれば前衛部隊から連絡があるだろうから、この大雨ではすぐには戦になるまいと具足を脱いだり、雨宿りのために部隊が散り散りになっていたために義元の本陣だけが特に目立っていたのではないだろうか。
義元本陣では、突然の嵐のような大雨の後に突如、どこからか信長軍が目の前に現れたものだから、どっと逃げ出し、そのままの勢いよく義元自身まで追い込めたのではないだろうか。
さらに田楽桶狭間では大雨により、ぬかるみがあちこちにあり、身動きが困難になったために撤退がうまくできなかったと思われる。そして、義元自身輿に乗っていたとあり、どうしても輿だと移動速度が遅いので、追いつかれやすい。
終わりに
結局、結果論からの勝手推察なので、言いたい放題ですが、やっぱり謎であるからこそこの桶狭間の戦いは、超絶面白いですね。
敗れた今川義元ですが、信長公記には、
鳴海城の山口教継・教吉が織田家に反旗を翻し、今川家に忠節を尽くしたのにもかかわらず、問答無用と切腹させました。
桶狭間の戦いで、わずかな小軍にまけるとは、天道にも背くと恐ろしいことになる。
と、人々は噂したようです。
自分ならばどう戦うのかという視点でも考えてみました。
もしもあなたが織田信長であったなら、どう戦いますか?
皆様のコメントお待ちしております。
参考資料
参考資料
1.信長公記 国立図書館デジタルコレクションにて、ダウンロード閲覧できます。 所々、旧字なので難しいです。
2.地図と読む現代語訳信長公記 中川太古 訳 株式会社KADOKAWA すごくわかりやすいです。参考にさせていただきました
3.地図作成 国土地理院地図 ベクター地図 色々編集できます。おすすめです。
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