磯野丹波守降参
2月24日 磯野丹波守が降参し、佐和山城を明け渡し進上して高島へまかり退いた。丹羽五郎左衛門を城代として配置した。
箕浦の戦い
5月6日 浅井備前守 姉川までまかり出て、横山へ差し向け軍勢を配置し、陣を構えた。先陣の足軽大将浅井七郎は5000の兵にて箕浦方面の堀・樋口らの居城近辺に進軍し、至る所を放火した。
木下藤吉郎は横山の城に多くの兵を備えておき百騎を従えて、敵方へ見えない様に山裏を回り移動し、堀・樋口と合流した。総勢5,600を過ぎなかった。5000の一揆勢に足軽をぶつけ、下長澤にて向かい合い一戦に及んだ。樋口の軍勢の者多羅尾相模守が討死した。このことを家来の土川平右衛門が知ると敵方に懸かり込み討死し、比類なき働きであった。
一揆勢であるため、ついには追い崩し、敵10人を討ち捕えた。又、下坂のさいかちという所にて、敵は立て直しここにても暫く戦い、八幡下坂まで致し、引き上げた。浅井備前守はなすすべなく軍勢を退却した。
大田口の戦い
5月12日 河内の長島を3方面より出陣し、信長公の軍勢は津島まで参陣し、中筋口には佐久間右衛門、浅井新八、山田三左衛門、長谷川丹波守、和田新介、中島豊後守。
川の西にある多芸山の麓にそって、太田方面より柴田修理亮、市橋九郎左衛門、氏家卜全、伊賀平左衛門、稲葉伊予守、塚本小大善、不破河内、丸毛兵頭、飯沼勘平が担当した。
5月16日 あちこちにて放火してから退却する所に長島の一揆共は山々へ移動し、右手には大河あり、左手には山ノ下の道は一騎通れるかの道であった。一揆勢は弓・鉄砲を先々に配置し、対応した。柴田修理が見合って殿を務めるところに一揆共がどっと攻め寄せて、散々に戦い柴田は薄い手傷にて退却した。二番手の氏家卜全が向かい合い一戦に及んで、氏家ト全と家臣数名が討死した。
志村城の戦い
8月18日 信長公 北近江方面にご出馬され、横山の城に着陣された。
8月20日夜 大風が吹き出し、横山の城の塀や櫓が吹き落された。
8月26日 大谷と山本山の間50町になるかならないかだろう。その間の中島という所に一夜陣を張り、足軽に仰せつけられて、興語・木本までことごとく放火した。
27日 横山の城へ軍勢を引き上げられた。
28日 信長公は佐和山城へ移動し、丹羽五郎左衛門の所にて泊まった。先陣の者は一揆が立て籠もっている小川村、志村の郷まで押し迫り、近辺を焼き払った。
9月1日 信長公は志村城を攻撃させ、ご覧になった。軍勢は、佐久間右衛門、中川八郎右衛門、柴田修理、丹羽五郎左衛門の四人に仰せつけられ、四方より攻め寄せ、乗り込み破り、敵の首670を討ち捕えた。並びの郷 小川城の城主小川孫一郎が人質を差し出して、降参を申し出て、許された。
9月3日 常楽寺へ移動し、滞留した。一揆の籠る金が森を取囲み、四方の田畑を悉く刈った。鹿垣にて四方を取囲み、道を塞いだところ、宥しを乞い人質を差し出したのでこれを許し、すぐに南方方面に移動した。
9月11日 信長公は山岡玉林という所に陣を張られた。
比叡山延暦寺焼き討ち
9月12日 叡山へ攻め寄せた。事の子細は、去年に野田・福島を取り囲み、ついには落城という時に越前の朝倉・浅井備前守らが坂本方面から攻め寄せて、そのまま京都へ乱入されては厄介になるので、野田・福島をそのままに引きあげ、すぐさま逢坂を越えて、越前衆に馳せ向かい、つぼ笠山へ追い上げた。兵糧攻めを行うのに比叡山延暦寺の僧衆を呼び出した。信長公に忠節すれば信長公領地にある寺社領を還付致すことを刀の刃を打ち合わせる堅固の約束をし、朱印状も併せて使者を遣わし、出家の道理にて、どちらか一方を贔屓するのが難しいならば我軍をさまたげる事は除いてもらいたいとわかるように仰せ聞かされた。もしもこの2か条に違背したならば根本中堂三王21社をはじめ、焼き払う旨を掟とされた。山門・山下の僧衆は、王都の鎮守でもあり仏の道や行動を出家の作法にもかかわらず、天下を嘲笑し、不埒にも天道の恐れを顧みずに金銀の賄賂を受け取り、魚・鳥・女人等までも世話をして、浅井・朝倉を贔屓し、ことごとく勝手気ままであった。まず世の時に習いて勝手気ままにせずに遠慮し、事が起きない様に無念ながらも軍勢を退かれた。この鬱憤を晴らすべく時が来た。
9月12日 叡山を取囲み軍勢を配置した。根本中堂三王21社をはじめ奉る仏堂・神社・僧坊・経典一字も残らずに一気に雲霞のごとく焼き払い灰塵となった。哀れにも山下の老若男女は右往左往致し、取物も忘れて取も敢えず悉く裸足で歩いて八王子山へ移動し、社内へ入り、籠った。
四方より鬨の声を上げて攻め上がり、僧や俗人、幼い子供や上人、皆々の首を切り、信長のお目にかかり、これらの者は、山の頭である高僧や貴僧、智い僧と言った。そのほか美女・子供もいざしらず全員召し捕え、召し連れて、御前に参り悪僧の儀は是非も及ばずこれらの者助けてくれと声々に上げるけれども中々に許される事無く、一々首を打ち落とし目も当てられぬ有様であった。数千にも及ぶ数の屍の山を築き、哀れであった。年来の鬱憤を晴らしおわった。
そして、志賀郡を明智十兵衛にくだされ、坂元に居城を構えることになった。
9月20日に信長公は美濃国の岐阜に帰陣した。
考察
信長が第六天魔王と言われる所以は、この比叡山延暦寺を焼き討ちしたことによるのです。この比叡山延暦寺の焼き討ちがとりわけ話題になります。他の大名でも戦にて村々を焼き討ちすることは、よくあることなのです。
しかしながら、当時としては、寺社仏閣に対しては、戦国時代においてもある意味、治外法権のように独自の権力があった。それは、組織として、非常に強固であったのです。信長と対立した一向宗などが特にそうで、下手な大名よりも絶大な力があったのです。全国の各地に門徒がおり、その信仰心による結束、団結力は武士の忠義、忠節を時には上回ることもあり、信者の数も計り知れなかったのです。そのため、大名といえど簡単には寺社勢力に手出しできなかったことと、そもそも、単純に神仏を奉る寺社に刃を向ける事自体が珍しい事だったのでしょう。
比叡山延暦寺は、なぜ浅井・朝倉を贔屓にしたのか?
歴史と寺社をおもんばかる朝倉氏に対し、革新の名のもとに寺社の財源を蔑ろにする信長。そして、我らは王都の鎮守という驕りといくら信長でも手出しに及ばぬという慢心さゆえの行動ではないだろうか。
ある程度の寺社には寺社領という直轄の領地があり、戦国大名の様に年貢や税を取っており、さらに市場や座(現代でいう組合のような)の元締めであり、その場所代や手数料などの大きな収入源があり、勢力を増していたのです。
それに対して、信長は関所の廃止、寺社領の削減や楽市楽座による税の徴収の撤廃など革新的な政策により、領国経営を潤沢にすると共に時には邪魔な存在となる寺社勢力の衰退を行ったのです。
これにより、今までは武士同士の戦により、領地の大名が変わろうとも寺社勢力には影響が少なかったが、信長の政策転換により、自分たちの命運も左右されかねない状況となっていったのです。そのために石山本願寺の一向宗や比叡山延暦寺などは、次第に信長に反抗することとなったのです。既存の慣習を壊している信長の政策に対して既得権益の組織達は、到底受け入れられるものではなかったのです。
終わりに
信長にとって、志賀の陣の時ほど、苦しい状況はありませんでした。このときの比叡山延暦寺に対する怒りはいかほどであったのか。
老若男女一人残らず首を落とすという凄惨な惨事となった比叡山延暦寺。もしも志賀の陣において、延暦寺の高僧たちがなにがしかの行動を取っていればこのようなことにはならなかったことでしょう。
参考資料
参考資料
1.信長公記 国立図書館デジタルコレクションにて、ダウンロード閲覧できます。 所々、旧字なので難しいです。
2.地図と読む現代語訳信長公記 中川太古 訳 株式会社KADOKAWA すごくわかりやすいです。参考にさせていただきました
3.地図作成 国土地理院地図 ベクター地図 色々編集できます。おすすめです。
4.信長の天下布武への道 谷口克広
5.越前朝倉一族 松原信之
6.浅井長政のすべて 小和田哲男
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