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信長公記 解説 太田牛一 写本私的翻訳 美濃国攻略 稲葉山城 1567年

信長公記稲葉山城攻略

稲葉山城は、信長により岐阜城となり、信長の居城となった重要なお城の一つですね。

金華山の上にあり、天然の要害を利用した城としても有名ですよね

そうなんですよ。一体どのようにして、攻略していったのか見てみましょう。今回も『信長公記』を基に解説していきます。
有名な豊臣秀吉が築いたといわれる墨俣の城などについては、ほとんど記述がありませんので、ファンの方には少し寂しいですが、とりあえず見てみましょう。

合戦には、諸説あります。ブログ内の解説も個人的な解釈によるもので、正当なものではありません。誤字、脱字、間違えなどございましたら、コメントをお願いいたしますと共にご容赦ください。

目次

合戦の背景

尾張の隣国美濃では、1556年に信長の舅になる斎藤道山が息子の斎藤義龍に敗死した。

道山は、長男義龍を愚者だと思って、弟たち2人を優遇していたが、道山が稲葉山城を下山した時に義龍の計略により、弟達2人に病を装い、見舞いに来させて殺害した。その事を下山した道山に知らせ、そのまま合戦となり、討死した。

織田信長は、尾張を統一して間もなく、1560年に桶狭間の戦いにて、今川義元を討ち破ると、美濃の攻略をはじめました。

森辺の合戦

1561年 5月13日 木曽川・飛騨川を三つの舟渡から超えて、西美濃へ入り、かち村に陣を張った。

翌14日雨の中、敵墨俣より、長井甲斐守、日比野下野守を大将として、森辺口に出陣した。

信長は天の勢い増すところであると評して、にれまたの川を越え向かいあい、合戦となり、槍の打合いとなり数刻後に長井甲斐守、日比野下野守をはじめとして170人を討取った。

前田利家は、以前に信長より勘当されていたが桶狭間の戦いと此度の朝合戦に首一つ、首二つを取り進上せれど許されずいたが此度の活躍により、許された。

道山を討破った斎藤義龍が1561年5月に病気により死去します。この龍興が当主に

十四条の合戦

1561年 5月上旬 木曽川・飛騨川を越え西美濃に乱入し所々を放火し、墨俣に丈夫な砦を築き、陣を構えよと仰せになった。

5月23日に十四条という村に敵が陣を構えて、ただちに墨俣より懸り付け、足軽共が取合い朝合戦になり、

味方の瑞雲庵の弟が討たれ引き退いた。この勢いで敵が北かるみ迄砦の西方向に陣を備えた、信長がご覧になり西かるみ村へ移動し、古宮の前の東の方向に陣を張り備えた。

足軽の戦いになりそのまま夜に入り、敵の奥木村牛介が先に攻撃を仕掛けてきたのを追い立て、稲葉又右衛門を池田勝三郎、佐々成政の両人が相討ちで討取った。夜合戦に逃げ去る者も有り、また、一方突き立て懸る者もあり、夜の間に敵は引き下がっていった。

信長は明け方まで陣に居り、朝には墨俣に引き上げていき、墨俣を引き払った。

於久地城を攻撃

1561年 6月下旬 於久地へ小姓衆を先陣にて攻め込み、城壁をもみ破り侵入して戦い数刻後に味方10人が討たれ、若衆の若室長門がこめかみをつかれて討死になり、稀にみる優秀な人から、信長は大きく惜しんだ。

1562年 松平元康(徳川家康)と同盟を結ぶ。

1563年 小牧山移転

 上総介信長は上手い奇策があった。住んでいる清州は、国の真ん中にて富に栄える地なり、ある時内衆を呼び出し、二の宮という高山の山中に上がり、ここに要害な城を築きあげると仰せになった。上意にて皆々引っ越しを余儀なくされた。この峰は誰々、この谷合に誰々が屋敷を作るように指示した。その日は帰り、又急に出かけて、この旨を指示した。清州から、二の宮の山中への引っ越しは難儀だと皆々迷惑だったと大仰ならしていた。

その後に小牧山に移ると仰せになった。小牧山の麓まで川が続いており、資材家具の移動に便利の地だと喜んで罷り越した。これも始めから、小牧山に移ると仰せになっていれば誰もが迷惑だっただろう。

小牧山の並びに敵城の於久地があり、20町ほど隔ててあった。敵は、小牧山城がひたひたとできたのを見て、城下になり守るは難しいと考え、於久地城を明け渡し、敵城犬山城に立て籠もった

加治田城味方になる

1564年 美濃国の敵城宇留翠、猿ばみの城の2か所は、犬山城の川向うにあり、これより5里奥の山中の北に加治田という所に佐藤紀伊守の息子右近右衛門という父子がいた。

ある時、崖良澤を使者として寄越し、信長公にただただ従いたいと丹羽五郎左衛門を通じて言上した。美濃国の国内に味方の者を所望していた時のことなれば大変喜んだ。

まずは兵糧を蓄えて蔵に入れて置くように指示し、黄金50枚を使者の崖良澤に渡し、遣わした。

犬山城忠節

ある時、犬山の家老 黒田城主の和田新介、於久地城主の中嶋豊後守、両人の忠節を丹羽五郎左衛門を以て申し入れて、犬山城をはだか城にして引き入れ、四方に鹿がき2重3重に閉じ込め、丹羽五郎左衛門を警固に当てていた。

猿ばみ城

飛騨川を越え、美濃国に出陣した。 宇留翠城主大澤次郎左衛門と猿ばみ城主多治見の両城は、飛騨川に付けて犬山の川向うにあり、一様に持ち耐えていた。信長は、10町15町隔ててある伊木山という高い山へ砦を築き、両城を見下ろし、陣を構えた。

うるま城近くに信長の陣ができたため、守るのは難しいと訴え、城を明け渡した。

猿ばみ城は飛騨川沿いの高い山にある。猿ばみ城の上に大ぼて山という生茂る崖がある。ある時、大ぼて山へ丹羽五郎左衛門の部隊が攻め上り、陣を構え、猿ばみ城の水の手を押さえ、上下より攻めると即時に困窮し、敵は降参して退散した。

堂洞城

猿ばみ城より3里奥にある加治田城の城主佐藤紀伊守の子息右近右衛門と父子で信長の味方になっていた。加治田の城へ敵の長井隼人正が軍勢を差し向け、25町隔てた堂洞に砦を構えた。堂洞砦に岸勘解由左衛門の多治見一党を入れ置いて、長井隼人は、優れた鍛冶士がいる関という所から50町隔てた場所に陣を構えた。この事により、加治田城が迷惑していた。

1565年 9月23日信長は御出馬され堂洞砦を包囲して攻められた。三方谷にて東は丘続きであった。。その日は風が強く吹いていた。信長は戦場を駆け回って、状況を確認して、堀きわに詰めよれば四方より松明をこしらい持ち寄って投げ入れろと指示した。

すると、長井隼人が織田軍を後ろからの攻撃のために堂洞砦の下25町離れた山下まで軍勢を備えていたが足軽隊を出せなかった。信長はこれに対応する軍勢を備えていた。信長は、先ほど言われた通りに松明を投入し、二の丸を焼き崩したので、敵は本丸へ入りまとまった。太田又助がただ一人で二の丸入口の表にある高き家の屋根に上って、無駄矢もなく弓矢で射掛けたのを信長公がご覧になり、快い見事な働きであると三度も使いを出し、称えて知行をご加増された。

午の刻に砦に寄せて、酉の刻まで砦を攻められ、すでに日が暮れるになった。河尻宗兵衛が本丸に乗り入れ、丹羽五郎左衛門も続いて乗り入れたが、岸勘解由左衛門、多治見一党らが大層な働きであった。しばらく城中にて敵味方分らぬほど入れ乱れて戦ったが 大将の者皆討ち果した。

その夜、信長が佐藤紀伊守・佐藤右近右衛門の両者のところへ行かれて、お会いし、宿泊すると、涙を流してお礼を述べるのも難しいほどに感動した。

翌日29日に山下の町にて首実検をなされ帰陣する時、関口より長井隼人正井 井口より斎藤龍興が3000人余りで出陣してきた。信長の軍勢700~800に届かず 負傷者や死者が出た。撤退したところは広野であった。まず軍勢を立て直し、負傷者や雑人共を退いて、足軽を出すようにあちこちにて馬を乗り回して指示し、軽々と引き上げた。敵は、もったいない戦いであったと言ったそうだ。

稲葉山城攻略

1567年 4月上旬 木曽川の大河を越えて、美濃国の加賀見野に軍勢を立てられ、敵は井口より龍興が軍勢を出し、新加納の村にも軍勢を備えていた。その間は、難所であったために馬が扱い難くその日は帰陣した。

8月1日 美濃三人衆の稲葉伊予守、氏家ト全、安藤伊賀守が言合せて、信長公に味方になるために人質を受け取りくださいと越えて来た。

 それゆえ村井民部、永嶋田所之助が人質を受け取りに西美濃へ向かわせた。人質もまだ受け取っていないのに信長は、俄かに軍勢を出され 井口山に続き、瑞龍寺山へ登られて、敵がこれは如何に敵か味方かと言う所、すぐに町に火をかけ、即時に裸の城になった。その日は風が思いのほか吹いていた。

翌日、工事の役割を仰せになった、城の四方に鹿垣きを結びまわし包囲した。その所に美濃三人衆も参り、肝をつぶしながらも挨拶に上がった。

信長は何事もこのように軽々と指示をされ、成される。

8月15日 敵方色々降参して、飛騨川の流れに沿って舟に乗り、川内長嶋へ行った。

龍興退散して去り、美濃国一円に仰せつけられ、尾張の小牧山より、稲葉山へ越えて井口という地名を岐阜と改めて名付けられた。

考察

信長公記に基づいて、書きましたが全体的に淡々していて、あっさりしている印象を受けました。尾張に続いて、隣国の美濃国の制覇をこのことにより、天下布武に向けて大きく前進する重要な攻略でした。また、美濃国は、大変広いのですが話の中心は、濃尾平野とその周辺でした。奥側の山々の国衆については、特にありません。山々の国衆は、義龍が負けると自然と従属したのでしょうか。詳しくないので不明ですが、どなたか教えてくださすると助かります

美濃国の平定は、1567年となっているので、桶狭間の戦い1560年から実に約7年の歳月が掛かっています。このことからも容易ではなかったことが伺えます。1562年に松平元康と同盟を結び、美濃の攻略に集中できたことも大きな要因ですね。

義龍亡き後に当主である斎藤龍興が酒色に溺れ、家臣の諫言にもろくに耳を貸さずにいた為に美濃三人衆などや竹中半兵衛などの有力な武将が織田方に加わることになり、結果、美濃国の斎藤家は、その地位を失うことになったのでしょう。

もしも斎藤義龍が生きていれば信長の天下の道もかなり遠回りになっていたのかもしれませんね。

ファンとして残念なのは、信長公記に柴田勝家や豊臣秀吉(この時は藤吉郎)が1回も出てこないんですね。美濃国の攻略といえば秀吉の一夜の墨俣城、軍師竹中半兵衛の調略等々、秀吉の出世街道のはじまりというイメージを持っていました。

①墨俣城は信長の命令とほぼ一言で終わり、従来の重要性と革新性、偉大なる仕事の成果という感覚がない。

②竹中半兵衛も名前が出てこない。

③丹羽長秀の活躍がすごい。加治田城、黒田城と於久地城の調略、猿ばみ城の攻撃、等々

秀吉観点からすると、

①重要拠点とされている墨俣城を築城しているのは間違いないので、その普請作業に秀吉が携わっていてもおかしくありません。

②竹中半兵衛自体が美濃国攻略に大きな成果はなかったため(影響力は当然あった)、また、秀吉の家臣になったために信長に気を使ったかも。

③丹羽長秀の活躍は、秀吉を家臣としていた可能性がある。太閤記のような活躍を秀吉がしていたならばその主である丹羽長秀の手柄でもあるために、軍記としては竹中半兵衛の成果は秀吉に、秀吉の成果は丹羽長秀に代表されたのではないだろうか。

秀吉については、いずれ太閤記などで解説したいと思います。

終わりに

さっぱりしている印象は、ある程度客観的に書かれたのでしょうね。

美濃国の数々の戦において、信長の機転と俊敏性、退き口の鮮やかさ等戦の強さが垣間見れました。また、小牧山の移転に対する奇策も人心把握が巧いことが伺えます。

ついに尾張、美濃を手中に収めた信長公は、天下への道を歩み始めます。続きが気になる

追加情報やコメントなどお気軽にお願いいたします

参考資料

参考資料 

1.信長公記 国立図書館デジタルコレクションにて、ダウンロード閲覧できます。 所々、旧字なので難しいです。

2.地図と読む現代語訳信長公記 中川太古 訳 株式会社KADOKAWA                        すごくわかりやすいです。参考にさせていただきました

3.地図作成 国土地理院地図 ベクター地図 色々編集できます。おすすめです。

4.信長の天下布武への道 谷口克広

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