立花宗茂とは
戦国武将・大名。九州は、大友氏の重臣 立花道雪の婿養子。筑前国の立花城の城主。豊臣秀吉の九州攻め後に柳川城主となる。関ヶ原の戦いにて、西軍に味方し、改易。その後、大名に復帰、さらに旧領の柳川藩主に返り咲く。
筑後柳河十三万石の領主立花宗茂を描く長編小説。秀吉をして「鎮西一の忠勇、天下無双の勇士なり」といわしめた宗茂の生涯は、戦っては義戦多く、常に寡兵をもって大軍を破り、その生きざまは信義一筋、まことに誠実・清廉なものであった。これは実父高橋紹運、養父立花道雪という両父の高潔な生き方を範としており、ゆえに本編は、この三人の父子像が中心のテーマとなっている。▼ともに大友家の加判衆であった両父は、当主宗麟を守り立てる立場にある。たとえ非道な仕打ちにあったとしても、決して当主を見放さず、己の運命として受けとめ、恥じることのない生涯を終えるのである。この愚直なまでの廉潔な生き方を、著者は現今の知的ノウハウ重視の風潮に対するアンチテーゼとして提示、また自立する女性として描かれる妻ぎん千代と宗茂との葛藤も、今日的なテーマとして見事に描出している。▼現代人の心を癒し、人間の温もりをほのぼのとつたえる力作である。
版元ドットコム
本の目次 ●盗妻 ●婿盗り ●旗立て ●初陣 ●死の秋 ●散華 ●立花城 ●謁見 ●柳河城 ●碧蹄館 ●離別 ●関ガ原役 ●流寓 版元ドットコムより
あらすじ
*立花宗茂の名前は、晩年ですが名が複数あり混乱するので、宗茂で統一させていただきます
九州は、豊後国の大友宗麟の重臣である高橋紹運の長男として生まれる。父である高橋紹運は、前線の筑前国の立花城の城主立花道雪を父のように慕っていた。高橋紹運も立花道雪の高潔で、愚直な生き方を当然に常としていた。 立花道雪に高橋紹運の息子(宗茂)を婿養子にと懇願され、娘のぎん千代と婚姻し、立花宗茂となる。 養父 立花道雪に武将として鍛えられる。
九州は薩摩国の島津氏が勢力を拡大し、九州を統一せんと残る豊後の大友氏に迫っていた。筑前国の要である立花城と岩屋城、宝満城を立花宗茂、高橋紹運らが守っていた。豊臣秀吉の援軍が来るのを待ち望んでいるが島津氏の数万の大軍が目前に。宗茂は、父高橋紹運により堅固な立花城に共に籠城するように提案するが、立花宗茂らを生かすためにわずか数百の兵で岩屋城にて籠城。壮絶な戦いを繰り広げる。
豊臣秀吉による天下統一がなされたが、秀吉は唐の天竺まで行くように朝鮮の戦いをはじめた。立花宗茂も朝鮮に渡り、幾度と戦う。加藤清正や小西行長が敵に囲まれたときには、小勢の立花宗茂が大軍を破り、見事救い出した。
豊臣秀吉が亡くなると、徳川家康と石田三成による日本を東西に2分する関ヶ原の戦いが勃発。立花宗茂は、秀吉公の恩義に報いるために石田三成方の西軍になる。徳川家康の東軍の勝利に終わり、立花宗茂は改易となる。朝鮮の役で友情を育んだ加藤清正の食客となった。
江戸に出てきた立花宗茂は、本多忠勝の推挙により、徳川秀忠の家臣になり、その後旧領の柳川藩主となった。
感想まとめ
立花宗茂の魅力とは、一体何なのでしょうか。 戦が強いところでしょうか? 関ヶ原の戦いにて改易後に復帰したことでしょうか?
誠実で愚直な生き方では、ないでしょうか。嘘や偽り、裏切りが戦国の習いであった当時において、父高橋紹運や養父立花道雪の主君に対するひたむきな高潔さや愚直さを受け継ぎ、義の武将であり続けたこと。目先の利益でなく、信義に反してはいないのかを問い続け、自分の信念を貫くために戦略・戦術をもって、少数で大軍を討破るという事を幾度も成し遂げてきたその勇気と豪胆さ。また、立花宗茂と共に戦った家臣達との団結力。立花道雪は、家臣達についてこう述べています
立花道雪
兵は本来勇気があるものだ。兵が臆病になるのは、その上に立つ将がだめだからだ。他家で弱卒の汚名をこうむった兵は、すべからく、この道雪のもとに馳せ参じるがよい。天下に恥じぬ勇士に育てて見せよう
小説 立花宗茂 著者 八尋 舜右
日頃から、家臣たちを大事にしているからこそ、大事な戦場において、家臣たちは比類なき働きをすることができ、その将は、勝利を得ることができるのです。
関ヶ原の戦いの後に改易され、大名に復帰し、旧領に返り咲くことができたのも立花宗茂のただならぬ忠義心であり、同じく忠義を重んじる三河武士の徳川家には、相通じるものでしょう。また、大阪の陣を前にして、再度、豊臣方に猛将立花宗茂が参陣することを恐れていたことでしょう。もしも、立花宗茂が豊臣秀頼に味方したならばその影響力は、計り知れなかったことでしょう。
猛将で義に熱き立花宗茂 豊臣秀吉が西国無双と褒め称えたその武勇と生き方 ぜひご一読ください。
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