こんにちわ 今回は、一般的にはあまり有名でない豊臣秀吉の弟にして、最も頼りとされた武将『豊臣秀長』についての名著をご紹介させていただきます。新たなる豊臣秀吉の出世街道の裏側を覗き見ること間違いなし、ぜひとも本書を読まれることお勧めいたします
豊臣秀長とは
豊臣秀長と聞いて、わかる方はあまりいないのではないでしょうか。
豊臣秀長とは、”豊臣秀吉の弟であり,最も古くからの家臣でもあり,家臣として最大の領地と最高の階位を得た男”
しかしながら、語られることはあまりありません。なぜでしょうか?
あらすじ
『豊臣秀長 ある補佐役の生涯』
豊臣秀吉の弟であり,最も古くからの家臣でもあり,
引用元 版元ドットコムより
家臣として最大の領地と最高の階位を得た男。
だが,豊臣秀長は,なぜか語られずに来た。
巨大化する豊臣家臣団をまとめ,厳格な情報管理体制を敷き,
その上,鋭い財政感覚と蓄財能力を持った「補佐役」。
秀吉という光を支える影に徹した一生を描く名作。
藤吉郎(秀吉)と同じくの母なかの子供として生まれる。父については、同父や異父など説がある。
藤吉郎(秀吉)が織田信長に仕え始め、正室である『ねね』と婚姻のあたりで、藤吉郎(秀吉)の家臣となる。
藤吉郎(秀吉)には、親族が少なく、また、農民出身なので、部下になりたがるものも少なかった。
藤吉郎(秀吉)は出かけることが多く、足軽組のいざこざの調停や管理、雑務の処理など裏方役を一手に引き受けていたために弟の秀長は、頼りにされた。そして、秀長自身もそのことに満足していた。
美濃国を平定後に浅井長政と同盟関係になったが越前の朝倉家を攻めると織田信長と袂をわけた。
美濃国平定の活躍後に藤吉郎秀吉の北近江調略や小谷城攻めの功績などにより、北近江12万石の大名となり、羽柴筑前守秀吉と名が変わった。浅井長政の旧臣達や急拡大した領土の安定と大所帯となった大名運営のために秀長は、奔走していた。
華やかな正月の饗応や信長にお目見えするなど、武士の晴れ舞台に行くこともなく、留守居として補佐役に徹していた。また、隣国の旧朝倉氏の越前では、一向宗の一揆により、領主が殺害されていた。しかし、北近江では秀長のきめ細やかな対応などにより、一揆などは起こらなかった。また、秀吉小姓衆達の調停のためにも文武両道を得るために日々勉強を欠かさないでいた。
中国地方の覇者である毛利氏と交戦していた秀吉であった。突如として、織田信長が明智光秀に本能寺の変にて、亡くなったとの一報が入る。すぐさま毛利氏と和解し、京に引き上げる『中国大返し』。
戦において、最も大変な殿を任せられる小一郎秀長。和議を結んだばかりの毛利と旗色ですぐに様変わりする宇喜多家の調整に苦労する。
清須会議後に対立した柴田勝家と山崎にて合戦。四国の長宗我部氏制圧と九州の島津氏討伐、小田原の北条氏攻めなどを経て、ついに秀吉は天下統一を果たし、太閤豊臣秀吉となった。
このころになると小一郎秀長は裏方だけでなく合戦でも大活躍した。
天下人を支えた豊臣秀長は官位大和大納言となり、約110万石の大大名となった。
1591年に豊臣秀長は病死した。
秀長亡き後すぐに秀吉の側近で茶人の千利休が切腹を命じられた。その後、朝鮮の役をはじめ、側室の淀殿が秀頼を産んだために秀次を切腹させ、一族を処刑した。以前の秀吉小姓衆達は大名となり、文人と武人と派閥に分かれ、対立するようになった。難しい調停役のいない豊臣家は、悉く崩壊の一途を辿るのであった。
著者 堺屋太一氏について
作家、元経済企画庁長官。1935年大阪府生まれ。60年東京大学経済学部卒業後、通商産業省(現・経済産業省)入省。62年の通商白書で「水平分業論」 を展開して注目され、70年には日本万国博覧会を手がけた。78年同省を退官し、作家としての執筆活動を開始。98年7月から2000年12月まで、小渕 恵三内閣、森喜朗内閣で経済企画庁長官を務めた(「BOOK著者紹介情報」より:本データは『東大講義録 文明を解く』(ISBN-10:4532195632)が刊行された当時に掲載されていたものです)
感想まとめ
活躍するリーダーの傍らには、素晴らしき仲間がいます。
農家出身の豊臣秀吉が果たした天下統一。その裏には、弟の豊臣秀長という存在が常にあり、華やかな表舞台に立つことや自分自身の出世や野心もなく、ただ兄秀吉のために尽くし続け、豊臣家の真の屋台骨であった。
最も特筆すべきことは、秀吉の裏方であり続けることに秀長自身が満足していた事だ。
意外と知られていない事実だが、豊臣秀長は戦において負けなしであった。妙な野心や武功心がないために冷静であった。 豊臣秀長は、武功や自分を多く語ることなく、終生、兄秀吉の補佐役を貫いたのであった。そのため、秀長自身の記録は少ない。この事が最も補佐役に徹していたことを証明しているだろう。
織田信長との最大の違いは、もしかしたらここにあるのかもしれない。信長の能力は素晴らしい。だが、その信長による革新の連続によって、多方面に亀裂や軋轢などが生まれる。そのことを調停できうる補佐役がいなかった。家臣団は、いかに信長の構想を実現できるかということに優れた武将が優遇されたからだ。
誰にでも不平不満があるものだ。そんな時についと相談しやすく、意見を汲んでくれる頼もしき存在の上司が居てくれれば、部下はどんなに救われることだろうか。現代においても、リーダーの資質や能力が問われることが多いが一人の人間が革新的なアイデアやイノベーションと共に人間力も素晴らしく優しさを併せ持つ人物など稀有である。現代では、ついついパーフェクトヒューマンを目指すように煽られている気がする。そんな必要はないのだ
個々が各々優れた能力を持ちより、チームとして能力を高めるほうがはるかに健全なのだ。人は一人では生きていけないのだから、自分に足りない所は、他の人に補ってもらうほうが良い。自分に慢心することなく、人に優しくなれるはずだ。
豊臣秀吉と豊臣秀長は、まさに太陽と月の関係のように二人で1人だからこそ、天下統一を成し遂げることができたのではないだろうか。
太陽という生き方だけなく、誰かの月や星になるという生き方もあるのではないだろうか。決して脇役ではなく、夜がないと太陽は輝けないのだ。あなたは、どう生きますか?
コメント
コメント一覧 (2件)
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ありがとうございます