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信長公記 解説 太田牛一 写本私的翻訳 金ヶ崎の戦い 1570年

今回は、越前朝倉家との戦いで、途中から撤退戦になります。

なんで撤退したのですか?

ある重要な人が裏切ったんですね。信長公記を基に見てみましょう

合戦には、諸説あります。ブログ内の解説も個人的な解釈によるもので、正当なものではありません。誤字、脱字、間違えなどございましたら、コメントをお願いいたしますと共にご容赦ください。

目次

合戦の背景

足利義昭を奉じて上洛した信長 諸将に上洛するように頻りに促していたが越前の朝倉氏は、話にならなかった。若狭の国の武藤守を上意により、征伐ということで進軍するが、その武藤守を操っているのが朝倉氏であると判断し、越前を攻めることになったのであった。

越前へ出陣

4月20日 信長は京都より直接越前へ進行して、坂本を越えて、その日は和邇に陣を敷いた。21日 髙島の田中城に泊った。

4月22日 若狭の国熊河 松宮玄蕃の所に陣宿とし、23日 佐柿の栗屋越中守の所にて着陣し、翌日は逗留した。

4月25日 越前の敦賀方面へ軍勢を出し、信長は駆け回り状況を判断して、ただちに手筒山へ取り掛かり、この城は高山にて東南に岩石など険しい山々がそびえ立っていたのだが、しきりに攻め入るように命令があり、一命粉骨に力のかぎり忠節を尽くして、ほどなく攻め入れ、敵の首1370を討取った。

金ヶ崎城に朝倉中務大輔らが立て籠もり、翌日、また攻めたてた。攻め滅ぼすようにしていたところ降参し、恭しく退出した。

引壇城もまた、城を明け渡した。瀧川喜右衛門、山田左衛門尉の両人が遣わされ、堀や櫓を引下し、破却させた。

浅井長政裏切り

木目峠を越えて越前国の中に侵攻の時に 北近江の浅井備前(浅井長政)が裏切ったとの情報が次々に入ってきた。しかしながら、浅井の者とは歴然とした縁者の上、北近江一国を仰せつけているのだから不足があるわけがない。嘘説と思っていたところ、方々の従者の注進が入りはじめたので、裏切りは間違いないだろうとなった。

金ケ崎城に木下藤吉郎を残して、4月30日 朽木信濃守を奔走させて、朽木越えして京都にいたり、そして軍勢を打ち納めた。これより明智十兵衛、丹羽五郎左衛門、両人を若狭国へ派遣して 武藤上野守の人質を差し出すように仰せある旨を伝えると直ちに母親を人質として出し、その上、武藤の砦を破却させた。

はりはた越えにて参上して、武藤守の一件を言上した。そのうちに近江の道筋通りの為稲葉一鉄父子3人、斎藤内蔵助を警護にあて、近江の守山の町に配置したときに一揆が蜂起して、へそ村に煙を上げ、町の南より焼き入れした。稲葉は諸方面にて追い崩し多数を切り捨て、比類なき働きをした。

さて、京の諸将達の人質をとりまとめ、将軍へ進上した。天下大事に及ぶ時には、日時によらず上洛いたしますと仰せの上5月9日に京を発った。

志賀城、宇佐山の砦には森三左衛門を配置し、12日に永原まで移動し、永原には、佐久間右衛門を配置し、長光寺に柴田修理亮を在城させ、安土城に中川八郎右衛門を籠らせ、このように各砦毎に軍勢を配置した。

考察

越前の朝倉義景は、なぜ上洛をしなかったのであろうか。

朝倉義景画像(複製:湖北町所蔵、原資料:心月寺所蔵)・ウィキメディア

そもそも将軍足利義昭は、上洛前に越前の朝倉家に居たのだ。朝倉氏は代々朝廷と近しい間柄となっており、前将軍暗殺後に足利義昭を救い出した一人が朝倉義景であった。しかしながら、朝倉義景は上洛する気配がなく、これでは埒が明かないと足利義昭は、織田信長を頼ったのであった。朝倉義景にしてみれば新参者の織田信長に頭を下げるなどさらさらなかったのであろう。

最も驚くべきことは、浅井長政の裏切りである。

あの信長でさえ驚いたことである。一説によると、浅井氏は朝倉家の臣下になっているため、又は朝倉家と同盟を結んでいるためとの説明がある。

浅井長政像 (高野山持明院像)・ウィキメディア

そもそもの浅井家は、北近江の国衆で、浅井長政の祖父亮政の時に北近江の国衆間で次第にリーダー的存在になり、守護代の京極氏を追い払い、戦国大名化していった。このことに南近江の守護六角氏も黙っておらず幾度となく戦い、父久政のある時の戦いにおいて、大敗したために六角氏の臣下扱いになっていた。ところが浅井長政が16歳頃に六角氏の臣下扱いに不満を持つ家臣らと相談して、父久政を隠居させ、独立するようになり、そのときに朝倉家の援助があり、その恩に報いるためだということになっている。

通説では、織田・浅井同盟締結の時に【朝倉家に攻めるときにはお互いに連絡すること】という条件があり、「条件を破った信長は信用できず、我らも攻められるぞ」と、父久政の説得により、恩顧ある朝倉家に味方したとあるが、既に隠居した久政にそのような大きな影響力があるのだろうか。六角氏から独立し、見事戦国大名になり、信長との同盟で宿敵六角氏を破り、北近江一帯を治めるほど、浅井家は大きくなったその当主である長政の意向と隠居した久政の影響力のどちらが勝っているかは、明らかだ。また、一般的な同盟締結の条件だったという不戦の誓いだがその根拠の資料は見当たらない。誰が言い始めたのだろうか。

しかしながら、そういう状況を信長は知らなかったのであろうか? 昨日今日同盟したわけではないし、幾度も共に戦っているために全く知らなかったとは考えられない。長政自身ある時から織田家と朝倉家いずれ敵対関係になる可能性を当然わかっていたのではないだろうか。戦国時代において、状況が変われば同盟関係も無くなるは常である。お互いに承知の上でなければ、信長が越前に攻撃するなど到底できるわけがないと思いたいのだが。

今回の戦の名目になっている若狭の国の武藤の成敗の為ということで、はじめから朝倉家を攻めることに表向きはなっていなかった。途中で、若狭の国の武藤は、朝倉家の影響を受けていると判断して、急遽、朝倉家を攻めるようになったと毛利元就に当てた書状で明らかになったらしい。表向きの若狭の国の武藤の成敗ならば隣の浅井氏の援軍もしくは先陣を務めてもおかしくない。各種の解説等を見ても、家康の援軍の記載あるが浅井の援軍については記載が見受けられない。あくまでも同盟関係なれば援軍に該当するはずだが。もしも浅井家の援軍が参戦していれば、浅井長政の裏切りが発覚した時点で、戦いか首を刎ねられているはずである。信長公記にも記載がないために浅井家が参戦していた可能性は低い。後詰の兵站の役割だったのだろうか。

信長は計画的に浅井氏を参戦させなかったのだろうか。信長の大いなる計算ミスと油断と増上慢だったのだろうか。尾張、美濃の制覇と畿内の平定、このまま行けば天下統一も夢ではないと天狗になっていたのだろうか。浅井は我の義弟であり、北近江を任せているのであるから、朝倉家を攻めることになろうとも何の不足があろうか、と傲慢だったのであろうか

もちろんそれもあるが浅井長政の気持ちの変化ではないだろうか。

浅井家と織田家の同盟と言いつつ、なかば臣下と同様になっていったのではないだろうか。同盟当初では宿敵六角氏をどうにかしたい一心であったが、六角氏が消えると次第に臣下のような扱いになりつつあり、何事も信長の許可が必要になってきた。将軍足利義昭でさえ、信長は傀儡政権とし、天下統一のために利用される。北近江一帯を支配できるようになったが、この先拡大できるかも不明であり、越前の朝倉家を攻めるのもある意味半ば強引である。信長のやり方に少々不満がある。このままで良いのだろうか。もし、今越前にいる信長を攻め滅ぼしたなら、きっと近江一国を支配でき、朝倉家とも対等になり、将軍足利義昭を盛り立てられる。きっと今の俺ならできるのではと。ふと思ったのではないだろうか。

 浅井長政の決断は状況的判断による突発的な行動だったのかもしれない。なぜなら、朝倉家ともうまく挟撃の連携できずに結果的に信長を逃し、織田軍に挟撃の合戦において致命的なダメージを与えていない。信長が越前に攻め始めてすぐに家臣たちに反旗を翻す連絡がいき、家臣たちの一部から情報が漏れた可能性がある。もう少し、信長を一乗谷に進軍させてから、すばやく行動すれば確実に挟撃できていたのかもしれない。結果論から、さらに言うならば援軍に駆け付けますと後ろから、ある程度接近し、退路を遮断した状態で、戦うべきだった。

手筒山城が落ち、金ヶ崎、引壇城も開城したため、急がないと朝倉家が大敗すると焦ったのかもしれない。

千載一遇の機会を逃した浅井長政、しかし、この後、信長包囲網を形成し、次第に信長を追い詰めることになります。

終わりに

皆さんは、なぜ浅井長政が裏切ったのか どう思いますか?

この浅井長政の裏切りを契機に信長包囲網がはじまり、多くの裏切りがあり、苦難の時を向かいます。魔王とも称される織田信長、この浅井長政の裏切りが魔王への始まりかもしれません。

参考資料

参考資料 

1.信長公記 国立図書館デジタルコレクションにて、ダウンロード閲覧できます。 所々、旧字なので難しいです。

2.地図と読む現代語訳信長公記 中川太古 訳 株式会社KADOKAWA                        すごくわかりやすいです。参考にさせていただきました

3.地図作成 国土地理院地図 ベクター地図 色々編集できます。おすすめです。

4.信長の天下布武への道 谷口克広

5.越前朝倉一族 松原信之

6.浅井長政のすべて 小和田哲男

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