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信長公記 解説 太田牛一 写本私的翻訳 観音寺城の戦い 1568年

観音寺城の戦い

観音寺城は、六角氏が治めるお城ですね

どんな戦いだったのでしょうか?

詳しい記述はあまりないのですが、信長公記を基に見てみましょう

合戦には、諸説あります。ブログ内の解説も個人的な解釈によるもので、正当なものではありません。誤字、脱字、間違えなどございましたら、コメントをお願いいたしますと共にご容赦ください。

目次

合戦の背景

足利義昭は、はじめに六角氏、朝倉氏を頼っていたが中々上洛を果たせずにおり、織田信長に頼ることにした。

織田信長は美濃を攻略した翌年に足利義昭からの頼りを承諾して、1568年7月に美濃の立正寺に迎い入れた。

六角氏に所司代任命の使者

 1568年 8月7日 信長は、近江の国 佐和山へ行き、六角氏に足利義昭の使者と信長の使者をして、義昭公の入洛の道筋のために佐々木左京太夫承禎(六角義賢)に人質を出し、尽力するよう旨を出した。

信長は7日間逗留して、様々説得に尽くし、本意が遂げられた時には天下の所司代に任命することを固く約束するけれども不可能であったために許すことは是非に及ばず。この上は、近江国へ成敗するよう計画することにした。

箕作城の戦い

9月7日 公方様(足利義昭)から許可を頂き、近江一帯を討ち果たし、上洛を差し上げるために尾張、美濃、伊勢、三河の四か国の軍の兵を引き連れ、平尾村に陣を構えた。

9月8日 近江の高宮に着陣、この日雨の為に逗留して人馬休息をなされた。

9月11日 愛智川近辺に野陣を張り、信長が戦況を見て廻り、わきわき数か所の敵城には構いもせず、佐々木父子三人の立て籠もる観音寺城と箕作城へ行かれた。

9月12日 かけ上り、佐久間右衛門、木下藤吉郎、丹羽五郎左衛門、浅井新八に箕作城攻めを申し付けられ、申の刻より攻め、夜に入り、落城した。

去年 美濃国一円をを平定されたので、この度は、美濃三人衆を先鋒として派遣されるだろうと皆々思っていた所、美濃衆にお構いなく、馬廻り衆にて箕作城を攻められて、美濃三人衆の稲葉一鉄、氏家ト全、安藤伊賀守らは、意外な成されようだと不思議に思ったようだ。

その夜 信長は、箕作山に陣を置いて、翌日に佐々木承禎(六角義賢)らの館がある観音寺山へ攻め上るように考えていた所、佐々木父子ら3人は、逃げ出した。

9月13日 観音寺山を乗っ取りに山に登り、残っていた一党も降参し、人質を必ず出せば皆々一円今までの立ち位置のままであるとした。

畿内平定

9月14日 近江一国を平定したので、公方様との堅い約束通りに不和河内をして迎いに美濃の立正寺に遣わした。

9月21日 公方様 柏原の菩提院に到着された。

9月22日 公方様 桑賽寺に到着された

9月24日 信長 守山まで迎いに行き、翌日、志那勢田の舟が不都合になり逗留。

9月26日 信長 海を渡られ、三井寺極楽院に陣を張り、その他の軍勢は、大津の馬場松本に陣を構えた。

9月27日 公方様 海を渡られ、三井寺光浄院に陣を張り、宿泊した。

9月28日 信長 東福寺へ陣を移動した。 柴田日向守、蜂屋兵庫頭、森三左衛門、坂井右近、の四人に先陣を仰せつけられた。すぐに川を越えて、敵城に攻め立てた。敵の岩成主税頭の立て籠もる正立寺に方面に攻めると敵も足軽を出して、柴田日向守、蜂屋兵庫頭、森三左衛門、坂井右近、の四人は、協力して、馬にて勢いよく入り込み敵の首50余りを討ち捕え、東福寺にて信長のお目にかけた。公方様は同日に清水に場所を移られた。

9月29日 青龍寺方面に出馬し、寺戸の寂照院を占拠して陣を構えた。これによって、敵の岩成主税頭は、降参した。

9月30日 山崎に着陣し、先陣は天神の馬場に陣取り、茶川に細川六郎殿が陣を構えた。三好日向守が立て籠もっていたが夜に入り、退散した。篠原右京亮の居城、越水、瀧山のこれらも退城して、信長は茶川の城に従者を奉り、公方様をお迎えした。

10月2日 池田筑後守の居城へ攻められ、信長は北の山に軍勢を配備し、戦況をご覧になった。水野金喜の家来にいる梶川平座衛門は、有名な勇士として知られていた。馬廻衆の魚住隼人、山田半兵衛の両名も有名な武辺者であった。これら先を争って。外堀から乗り込み、ここにおいて、押しつ押されつ暫く戦い梶川平座衛門は腰骨を突かれて、後退し討ち死にした。魚住隼人もここにおいて、手傷を負い後退した。この様に激しい戦いだったので、互いに討死が多数出て、終わりに火を放ち、町にも放火した。

池田筑後守は、人質を進上したので、信長は軍勢を茶川の城に引き上げ、五畿内隣国(山城、大和、河内、摂津、和泉)は支配下に置かれた。

考察

信長との戦いで、あっさりと敗れた六角氏であるが一体なぜ選択を見誤ったのだろうか。そもそも足利義昭は、六角氏に頼っていたので、今更、信長に所司代に任命と言われても何とも言えない気持ちだったのだろうか。それに加え、三好三人衆を通じていたらしく、近江、畿内と合わせれば簡単には、攻められないぞと思ったに違いない。諸城と戦っている間に三好と連携して、戦うつもりだったのかも知れない。三好三人衆は、松永久秀の動きが気になり、動けなかったのかもしれない。

信長は諸城に目もくれずに六角氏だけに集中して、攻撃し、箕作城がわずか1日で落城してしまい、驚愕と共に六角氏は逃亡したことだろう。

信長公記には記載がないが1567年頃(候補が複数ある)に近江の浅井長政と妹の市が結婚し、同盟関係となり、近江の入り口を得ていたことは、非常に大きなことであった。今回の戦いにおいても、浅井の援軍も共に戦ったらしい。

また、畿内平定においても三好三人衆は、それぞれの城に立て籠もり、各個撃破されてしまう。なんとか結束できなかったのだろうか。いずれにしても織田軍の圧倒的な戦力の前になすすべもなかったのだろう

終わりに

近江、山城、大和、河内、摂津、和泉を平定し、足利義昭を征夷大将軍に擁することができ、いよいよ信長の天下が見えてきました。浅井長政、木下藤吉郎、丹羽長秀、柴田勝家、名は出てないが明智光秀もいますから、役者は揃って参りました。いざ

参考資料

参考資料 

1.信長公記 国立図書館デジタルコレクションにて、ダウンロード閲覧できます。 所々、旧字なので難しいです。

2.地図と読む現代語訳信長公記 中川太古 訳 株式会社KADOKAWA                        すごくわかりやすいです。参考にさせていただきました

3.地図作成 国土地理院地図 ベクター地図 色々編集できます。おすすめです。

4.信長の天下布武への道 谷口克広

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