MENU

信長公記 解説 太田牛一 写本私的翻訳 志賀の陣

合戦には、諸説あります。ブログ内の解説も個人的な解釈によるもので、正当なものではありません。誤字、脱字、間違えなどございましたら、コメントをお願いいたしますと共にご容赦ください。

目次

合戦の背景

姉川の戦いにて、浅井・朝倉軍に勝利した織田軍であったが、浅井・朝倉はすぐにでも軍勢を出してきた。

志賀の陣

9月16日 越前の朝倉、浅井備前守軍勢3万が坂本方面へ攻め寄せた。森三左衛門が宇佐山の坂を下り、迎え撃ち、坂本の町はずれにて戦った。手勢1000にて足軽合戦にて敵の首をわずかに討取り、勝利した。

9月19日 浅井・朝倉軍勢が二手に分かれ、攻め寄せた。町を破壊しては無念と思い、迎え撃つところ、大軍が二手よりどっとかかり来た。粉骨に尽くして戦ったけれども敵の猛烈な勢いにて叶わず、火花を散らして戦い、ついに槍の下によって討死した。森三左衛門、織田九郎、青地駿河守、尾藤源内、尾藤又八。 道家清十郎、道家助十郎という武勇に優れた兄弟も討ち死にした(説明省略しました。)

敵が宇佐山の城の端城まで攻め上り、放火したが武藤五郎右衛門、肥田彦左衛門の両人が堅固に守った。

9月20日 敵が大いに働き、大津・馬場・松本を放火した

21日 逢坂を越えて醍醐山科を焼き尽くしすでに京近くに出てきた。

22日 摂津の国の中島へ注進があり、京中に乱入されては面白くないと思召された。

23日 野田・福島から引き揚げた。和田伊賀守、柴田修理亮の両人に殿を仰せつけられて、道筋は中島より江口通りにて越えられた。江口という川は、淀・宇治川の流れの大河で、水がみなぎり、瀧が鳴るような流れで冷たい状態であった。それゆえ昔から舟渡にて渡っていた。猛勢の軍勢がさしかかったところ、一揆勢が蜂起し、渡し舟を隠れ置き通行を自由させなかった。稲・麻・竹・葦の様に見せかけ、大半が竹やりを持って、江口川の向こうから大阪堤へ付けて、喚き叫ぶけれども異事無なかった。信長公は川の上下を駆け回ってご覧になり、馬を打ち入れてみて、川を渡るとの旨を命令された。ことごとく乗り入れる所思いのほか川が浅かったので、雑兵は徒歩にて渡り、無難に越えた。次の日より、江口の渡りから、徒歩で渡るには中々成らず、ここ江口近辺の上下万民の者は奇特に不思議な事だと思った。

23日 公方様のお供をなされ、京へ帰国した。

24日 信長公 城都の本能寺を出立なされ逢坂を越えて越前衆に向かった。信長の旗頭を見て、下坂本に陣取っていた越北衆は敗軍の体たらくにて叡山へ逃げ上がり、はちが峯、あほ山、つぼ笠山に陣取った。この時山川(比叡山)の僧衆十人を今度召し寄せた。信長公は味方の忠節に付く者は信長領国中にある山門領を元のように還付する旨を刀の刃などを打ち合わせて誓ったと仰せ聞かされ、けれども出家の道理にて、どちらかを贔屓するのが難しいならば我軍をさまたげるを除いてもらいたいとわかるように仰せ聞かされた上に稲葉伊代守に仰せつけ、朱印状を調えさせ遣わされた。もしも2か条に違背したならば根本中堂三王21社をはじめ、焼き払う旨を掟とされた。重んじてあるけれども、しかし山門の僧衆なんともせず、その上あとでわかったことだが、浅井・朝倉を贔屓し、魚・鳥・女人等までも世話をして、ことごとく悪逆なり。

信長公その日は、下坂本に陣取りて、25日叡山の麓を取り囲んだ。

香取屋敷を堅固に拵えて平手監物、長谷川丹波守、山田三左衛門、不破河内守、丸毛兵庫頭、浅井新八、丹羽源六、水野大膳などを配属した。穴太にも要害を仰せつけられ、簗田左衛門太郎、川尻輿兵衛、佐々蔵介、塚本小大膳、明智十兵衛、苗木九兵衛、村井民部、佐久間右衛門、進藤山城守、後藤喜三郎、多賀新左衛門、梶原平次郎、永井雅楽助、種田助丞、佐藤六左衛門、中條将監、十六人の武将を置いた。その次、田中に柴田修理亮、氏家ト全、伊賀伊賀守、稲葉伊代守に陣取らせ、唐崎にもこしらへて佐治八郎、津田太郎左衛門を配置した。信長公、志賀の城、宇佐山に陣を構えられた。

叡山の西の麓にある古城のある将軍山にこしらへて津田三郎五郎、三好為三、香西越後守、公方衆が加わり計2000の兵を在城させた。屋瀬小原口には山本對馬守、蓮養が足がかりを構えて陣取り、この両人がこの辺りに詳しい事から夜な夜な山上に忍び入り、谷々の寺々を焼き崩し困難に致らしめた。

10月20日 朝倉方へ使者を立てられ、互いに年月を無駄にせずに一戦果たすべし、日時を決め出陣されよと菅屋久右衛門を以って仰せ遣わされたけれども中々返答に及ばず結果、朝倉方が抵抗を投げうち、和睦を請うけれども是非とも一戦の上にて鬱憤を散らすべきとを許容しなかった。

南方の三好三人衆の事、野田・福島の城普請を改良し、諸牢人が河内・摂津国の隅々へ出回ったけれども、高屋に畠山殿、若江に三好左京丈夫、片野に安見右近、伊丹・説河・茨木・高槻の何れの城々にも堅固に守った。その上五機内の衆が塞ぐように陣取られているから、京へ入る手立てが無い状況に及んだ。

また、江南方面では佐々木左京丈夫承禎の父子が甲賀の三雲に居城し、菩提寺という城まで出陣してきたけれども軍勢無きために攻め寄せる状勢にならなかった。

近江にいる石山本願寺の者が一揆を起こし、尾張の通路を止めるべく行ったが百姓等の行うことは物の数だが役に立たなかった。木下藤吉郎、丹羽五郎左衛門が在々所々で打ち廻し一揆共切り捨てて大方静まった。主君の大事はこの時と思い、大谷へ対する横山の城、敵がいる佐和山に対する百々屋舗の砦に堅固に軍勢を配置した。

木下藤吉郎、丹羽五郎左衛門の両人が志賀へ出陣したところに一揆共は建部の郷内に拠点を拵え、箕作山、観音寺山へ上り、両方より向かい合い通路を塞いだ。ここにてにらみ合いに及んで一戦した。先陣の武者勢の輩を切り捨て無事に通り抜け、両人は志賀へ越えて軍勢を勢田の郷へかけ入れた。これを信長公志賀のお城よりご覧になり、さては、山岡美作守は佐々木承禎を引き入れて謀反し、立て籠もったのかと不審に思っていたところに飛脚があり、藤吉郎・五郎左衛門らがここに参陣仕りますと言上あるとおおいにご機嫌よろしく、諸陣も喚声が沸き立った。

11月16日 丹羽五郎左衛門奉行を仰せつかり鉄の綱を堅固に作らせ、勢田に舟橋を掛けられ、往来が容易い様に村井新四郎、塙原新右衛門を警護にあてられた。

信長公の舎弟である織田彦七が尾州のこきえ村に足がかりを拵えて居城していたところに信長が志賀の陣にて手塞がりの様子をみて、長島より一揆を蜂起させ、攻められ、数日後ついに城内へ攻め込まれた。一揆の手にかかりては、無念と思い天守閣へ上がって、11月21日に織田彦七は腹を召されて、是非もなかった。

11月22日 佐々木承禎と和睦して、三雲勢、三上勢、志賀へ出仕して、上下とも満足された。

11月25日 堅田の猪飼野勘介、馬場孫次郎、居初又次郎の両三人は味方になり、忠節を尽くすことを坂井右近、安藤右衛門、桑原平兵衛らが報告して、承認され、上意により人質を受け取った。その夜中に軍勢1000にて堅田の中へ入った所、越前衆時刻移してはかなわないと考え、多勢を以ってあちらこちらから攻め込んできた。ここかしこへ応戦し、前波藤右衛門、堀平右衛門義景、右筆の中村杢丞、そのほか主たるものを数多く討ち捕えたが、あるいは手傷を負い、あるいは討死と次第に次第に人が無くなりついには敗退した。、坂井右近、浦野源八父子、一人富千の働きにて比類なき高名であった。ところが寒さ厳しく、雪が深いために北国の通路が困難なために公方様へ朝倉色々と嘆願したので、公方様が和睦を仰せ出されたが信長公は納得されなかった。

11月30日 三井寺まで公方様が御成になり、しきりに和睦を勧め、黙り込むわけにもいかなかった。

12月13日 和睦が成立した。

琵琶湖を越えられ勢田辺りまで軍勢を引き退け、その上高島まで人質を下されば退却する事と、迷惑な条件であったが14日に湖を越えて勢田の山岡美作守の所まで軍勢を退却した。浅井・朝倉はそれから15日早朝より叡山から下山した。退却であったがもちろんこれも併せて、戦の名将であるがゆえにである。

12月16日 凌ぐ大雪の中帰陣し、佐和山の麓石の郷に泊まった。

12月17日 岐阜に至り、帰陣を果たした。めでたき事である。

考察

信長の戦いの中で、最大の危機と言われています。改めて、志賀の陣を振り返ると

姉川の戦いから、1か月ほどで三好三人衆らが大阪にて攻め寄せ、後もう少しという時に突如、石山本願寺の挙兵に伴う攻撃に合い、戦線は激化。そんな中石山本願寺の顕如からの檄文によって、朝倉義景・浅井長政が攻め寄せ、宇佐山城を守る森可成はわずかな手勢で応戦するの討死。なんとか配下の武将が城を守り抜く。朝倉・浅井は、城に構わずに町々を焼き払いながら醍醐・山科まで進軍した。

信長は知らせを受け、三好三人衆と戦いを切り上げ電撃的に京へ軍勢を戻した。これに驚いた浅井・朝倉軍は比叡山の麓にある山々に陣を構えた。これに対して、信長は山下の坂本などに陣を構えて、大軍で包囲。比叡山延暦寺が浅井・朝倉をかくまうように庇護していたので、どちらかを贔屓せずにもしくは中立であるようにと申し聞かせた上に従わない場合はことごとく寺を焼き払う旨を伝えた。しかしながら、僧衆は返答もせずにかえって、浅井・朝倉をもてなした。

山々が連なる比叡山を下から攻めるには、難があった。そのため、決戦をするように朝倉に書状を出すが受合わずいた。浅井長政は、今度こそ雌雄を決したいところであったが朝倉義景が決戦を嫌がっていた。前回の姉川の戦いでの敗北がトラウマになっていたのかもしれない。そんな時に南近江の六角義賢らが攻め寄せてきた。さらに尾張の長島の一揆が蜂起し、信長の弟信興が切腹し果てた。そして、三好三人衆も攻勢を強めていた。しかしながら、各地の武将らが守り抜き、事なきを得ていたが、まさに四面楚歌の様相であった。

そもそも朝倉義景の作戦は何だったのであろうか。

石山本願寺の挙兵により、にわかに信長包囲網が一気に隆盛する機運となっていた。そんな中で顕如の要請に答えるように朝倉・浅井が出陣したのだが、朝倉氏は信長が大阪方に手を焼いてる内に京都を押さえる予定であった。

仮に京都を押さえることができたのならば情勢は大きく変わったのだろうか

京を押さえることになると、将軍足利義昭を味方に引き入れることができる可能性はある。将軍足利義昭が裏で信長包囲網を形成したという意見もあることから、朝倉・浅井が京都押さえると、将軍も反信長になり、畿内の国衆たちにも少なからず影響が出るだろう。特に三好義継や松永久秀らは、後に離反することになるから、可能性は否定できなくなる。

そうなってくると、日和見の武将や一旦降伏していた武将らも、色めきはじめるに違いない。長島の一向一揆や伊勢の北畠、南近江の六角氏も次々に蜂起し、尾張・美濃からの援軍補給ラインが絶たれれば深刻になり、止めの武田信玄により、尾張に帰ることもできずにそのまま潰されてしまう可能性もあるほどの千載一遇の機会とも言えたのではないだろうか。

結果的に信長の迅速な行動により、失敗に終わったのだが、信長自身も周囲を囲まれた状況で、迂闊に朝倉・浅井の軍勢に強硬に攻めることもできずに時間がいたずらに過ぎ去り、結果、越前の雪に助けられる事となった。

終わりに

最大の窮地と言われる志賀の陣の状況下を逃れた信長は、浅井攻略に向けてひたすら攻め寄せることになります。がまだまだ、信長包囲網が緩むことはありません。いかに

参考資料

参考資料 

1.信長公記 国立図書館デジタルコレクションにて、ダウンロード閲覧できます。 所々、旧字なので難しいです。

2.地図と読む現代語訳信長公記 中川太古 訳 株式会社KADOKAWA                        すごくわかりやすいです。参考にさせていただきました

3.地図作成 国土地理院地図 ベクター地図 色々編集できます。おすすめです。

4.信長の天下布武への道 谷口克広

5.越前朝倉一族 松原信之

6.浅井長政のすべて 小和田哲男

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次