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信長公記 解説 太田牛一 写本私的翻訳 1572年 虎御前山 築城

目次

北近江 出陣

1572年 3月5日 信長公 北近江に出陣され、赤坂に陣取り、次の日横山に至りて着陣。

3月7日 敵城 大谷と山本山の間 50町には過ぎず、その間へ進入し、野陣を張られた。余呉・木本に放火した。北近江の諸侍皆々は、このような余呉・木本へは難所を越えて来たので、ぜひとも一戦及ぶようにと日々の広言むなしく、足軽さえ出さずにいたので、何事もなかった。

9日 横山まで軍勢を引き上げた。

3月10日 常楽寺に宿泊

3月11日 志賀郡へ出陣し、 和邇に着陣されて、木戸城と田中城に押し詰め取るように仰せつけられた。明智十兵衛、中川八郎右衛門、丹羽五郎左衛門の両三人に砦を築かせた。

3月12日 信長公はすぐに上洛した。(政務の話を省略しました。)

三好義継・松永久秀 謀反する

ある時、三好左京大夫殿(義継)非儀を思い企て、松永弾正と息子の右衛門佐と談合して、畠山殿を封じ込め、すでに槍を立てた。安見新七郎の居城の交野へ軍勢を差し向けて、松永弾正 砦を築いてこの時大将として、山口六郎四郎、奥田三川の両人300人の軍勢にて砦に入った。

信長公より、討ち果たす旨を下され、軍勢を派遣された。佐久間右衛門、柴田修理亮、森三左衛門、坂井右近、蜂屋兵庫、斎藤新伍、稲葉伊予守、氏家左京亮、不破河内、丸毛兵庫、多賀新左衛門、この外5畿内の軍勢、公方衆を後詰に加えて、砦を取り巻き、鹿垣を結いまわしたところ、敵は風雨に紛れて逃げ抜いた。

三好左京大夫殿(義継)は、若江に立て籠もった。松永弾正は大和の信貴城に在城し、息子の右衛門佐は奈良の多門城に居城していた。

5月19日 信長公は天下の政務の為に岐阜に至りて帰陣した。

虎御前山に築城する

7月19日 信長公の嫡男 奇妙公 具足初めに信長父子心同じくされ、北近江方面に出陣され、その日赤坂に着陣し、次の日横山に陣を構えた。

21日 浅井居城の大谷へ押し詰め、ひはり山、虎御前山へ軍勢を登られ、佐久間右衛門、柴田修理亮、木下藤吉郎、丹羽五郎左衛門、蜂屋兵庫頭に仰せつけ、町を破らせられて、一息に押入り、水の手まで追い上げて、数十人を討ち捕えた。柴田修理亮、稲葉伊代守、氏家左京亮、伊賀伊賀守、これらを先手に陣を取らせた。次の日、阿閉淡路守の立て籠もる山本山へ木下藤吉郎、差し遣わして麓を放火させている間に城から足軽共100騎程罷り出て戦いになった。木下藤吉郎が見計らいどっと、切り掛かり切り崩して敵の首50余り討ち捕えた。信長公は、ひとかたならぬ褒美を与えた。

7月23日 軍勢を出し、越前との境にある余呉にある木下地蔵坊中をはじめとして、堂塔伽藍、名所、史跡など一つとして残らず焼き尽くした。

7月24日 草野の谷もまた放火し、大吉寺として高山に堅固な五十もある坊の所に近隣近郷の百姓らがこの山に籠っていた。険難登り難きにて、麓を襲わせ夜中より、木下藤吉郎、丹羽五郎左衛門、に後ろの山峯に攻め上がり、一揆の僧などの軍勢多数切られた。海上からは、打下の林輿次左衛門、明智十兵衛、堅田の猪飼野甚介、山岡玉林、馬場孫次郎、居初又二郎、に仰せつけて囲いの舟を拵えさせた。海津浦、塩津浦、余呉の入海の北近江敵地を焼き尽くし、竹生島へ舟を寄せ火弓、大筒、鉄砲をもって攻められた。このなか北近江は一揆は聞かずにあった。一揆を企て廻る輩は木の葉が散るように消え失せて、今は一人も無くなった。織田軍の猛勢が取詰めて、巻田の畑や田を刈り取られ、この間に浅井の軍勢は手薄になり城に籠もった。

7月27日より、虎御前山の砦の守備を仰せつけられた。そして、浅井方より越前の朝倉方へ注進があった様で、尾州の河内長島より、一揆が蜂起して、尾張と美濃の通路を止めて既に難儀に及ぼしてある。朝倉が馬を出されれば、尾張・美濃の軍勢を悉く討ち果たせるとの偽の情報を遣わして浅井が注進すると朝倉左京大夫義景は心得て、軍勢1万5000にて出陣した。

7月29日 朝倉方は浅井居城の大谷へ参着したけれどもこの状況を見るに及んで困難と知り、高い山である大ずくへ登り陣を構えた。そこで足軽共にを仰せつけ、若武者ども野に臥せ山に忍び入り、幟指物の道具を取り、首二つ三つを討ち取らない日は無く高名の軽重に合わせて褒美を与えたので、勢いづいた。

八月八日 越前の前波九郎兵衛の父子三人が陣に参ったので、信長公は、大いに喜んで、小袖や馬など皆拝領を申し付けた。翌日にまた、富田弾六、戸田興次、毛屋猪介が参り、これまた色々下されありがたい次第であった。虎御前山の砦の普請ほどなく出来た。匠の技にてこの山の景観を生かした仕立てに皆がこのような要害は見聞き及ばずにて、皆大変驚いた。座敷より北をご覧になれば浅井・朝倉 高山の大ずくへ取り登り入城し、難堪の峠の西には海上のひたひたとして、向こうの比叡山・八王の寺者を昔に尊き霊地であったが一年前に山門の衆徒等が心企て、自業自得の果ての道理をもって、山上山下灰塵となり、信長公の憤りを散せられ、存分に仰せつけたる所なり、また、南の志賀・唐崎・石山本願寺のかの本尊と申すは大国辰日までも隠れ無き霊験殊勝の観世音で、その昔紫式部も祈願を叶え、古今各所の源氏之巻を注し書かれた所なり、東は高山の伊吹山麓の荒れて残し不破の関いずれも眼前及ぶところの景観、また丈夫なる普請言い表せない次第なり。

虎御前山より、横山までの間三里ほど遠くにあり、その間に繋ぎとして、八相山・宮部郷の両所に要害を作るように仰せつけられた。宮部村には、宮部善梢祥坊を入れられ、八相山には番手の軍勢を備えられた。虎御前山より宮部までの通路は一段と悪く、武者の出入りの為に道の広さ三間を高々と作られて、そこへ敵の方面へ一丈の築地を50町の間作り 、水をせき止めて、往還容易いように仰せつけられ便利になるようにされた。愚かな朝倉方では苦しまないので横山に帰陣するに信長公がご出馬とする旨であった。一両日以前に朝倉方に使者を立てさせられ、辻もこれまで出張の間、日時を決めて一戦果てるように堀久太郎を以って、遣わしたけれども中々返答に及ばず、この間に虎御前山には、羽柴藤吉郎を定番として任命した。

9月16日 信長公と嫡男奇妙公の父子は横山に至りて、ご出馬を納められた。

10月3日 浅井・朝倉軍勢を出し、虎御前山より宮部迄作られた築地を引き崩して、浅井七郎を足軽大将の先陣にて攻めかかってきた。すぐに羽柴藤吉郎軍勢を出し、合戦となった。梶原勝兵衛、毛屋猪介、富田助六、中野又兵衛、瀧川喜左衛門を先陣にて切合い、追い崩し各々比類のない高名を上げた。瀧川喜左衛門のこと日々近習使者召し抱えた。これ以前に大谷方面にて大指物と仕掛け、罷り出させるもたいした働きもないために曲がり事とこの頃勘当を言い渡されていた、虎御前山に居残り、今度は目に見えて働きをし、各々の取り合いにて御前へ召し出され、面目を施したなり。

考察

信長包囲網によって、多方面に出陣を余儀なくされており、三好義継や松永久秀らの謀反に対しても全力で攻めることはなく、一旦、撤退させると筒井順慶などに任せるなどしていた。基本戦略として、浅井・朝倉軍との対決を主軸とし、その他の勢力には、とりあえず、各地の国衆や小大名に任せ小競り合いに抑えておくことで、浅井・朝倉に戦力を集中し、鬱憤を晴らしたかったのであろう。

一方の浅井軍も日に日に織田軍の調略や包囲戦や小競り合い、これまでの合戦によって、消耗し、家臣たちにまともに褒美も与えることができずに勢力が縮小していくばかりであった。頼みの朝倉義景は、腰が重く、嘘までつかないと援軍に来ない始末である。朝倉の家臣にも織田方に寝返る者も出てきており、状況は良いとは言えない。

しかしながら、三好義継や松永久秀の足利義昭からの離反により、大きな視点で見れば足利義昭・織田信長と反勢力の情勢は、この時点では反勢力のほうがやや上回っているかと思われる。最大の要因は、武田信玄である。三方ヶ原の戦いにて、徳川家康・織田援軍を打ち破って、勝利したことが大きい。

だが、反勢力の期待の武田信玄は、それ以上の上洛を進めないのであった。信玄の病状が悪くなったのだ。

すぐにでも浅井・朝倉軍を打ち破りたい織田信長と一刻も早く武田信玄に上洛してほしい反勢力達の戦略と思惑は、この後急展開することになる。

参考資料

参考資料 

1.信長公記 国立図書館デジタルコレクションにて、ダウンロード閲覧できます。 所々、旧字なので難しいです。

2.地図と読む現代語訳信長公記 中川太古 訳 株式会社KADOKAWA                        すごくわかりやすいです。参考にさせていただきました

3.地図作成 国土地理院地図 ベクター地図 色々編集できます。おすすめです。

4.信長の天下布武への道 谷口克広

5.越前朝倉一族 松原信之

6.浅井長政のすべて 小和田哲男

7.松永久秀と下剋上 天野忠幸

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